「悪霊からの解放」

マルコによる福音書5章11~20節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

墓場を住まいとしていた男の人は、今主イエスと出会っています。主が彼の名を聞かれたことは、彼との深い関係の始まりです。ただ、この男の人の口から発せられる言葉は、わたしたちにとっては分かりにくいものがあります。それは、彼自身が言っているのか、それとも彼に取りついた汚れた霊どもが言っているのか、その区別ができないからです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」というのは彼自身の言葉でしょう。一方、自分たち(複数)をこの地方から追い出さないように願っているのは、彼の中にいる汚れた霊たちです。わたしたちは、彼自身と彼を狂わせている汚れた霊たちとが、区別されないほどに彼自身の中で一体化している険しい現実を見せつけられます。

次に難しく思われるのは、汚れた霊どもが彼の中から出て行って、そこにいた二千頭の豚に乗り移った現象です。何が起こったのでしょうか。ただ一つはっきりしていることは、この男の人が自分の中に住みついている霊が自分から出て行ったことを確信できるためには、それを証拠立てる目に見えるしるしが必要だったということです。そのしるしとして、乗り移った霊によって豚の大群が湖になだれ込むという特別な事象を主は起こされたのです。ここで別の視点から問題にされるのは、二千頭の豚の死です。それがひとりの人の癒しに必要だったとしても、豚の所有者の立場から言えば、貴重な財産が失われたことであり、大きな損失です。そのことに関しては、聖書は何も述べていません。今日的な価値観に立って主を責めることよりも、ひとりの失われた人が癒され、社会へと回復させれられたことをわたしたちは喜ぶべきでしょう。

さて、主によって癒され、本来の姿に戻ったこの人は、主がこの地を離れようとされるとき、主に同行することを願い出ました。それは、自分を墓へ追いやったこの地の人々と共に住むことを忌み嫌ったからというよりも、主イエスと共に新しい生き方をしたいと願ったからではないでしょうか。主に従い、神の国のために仕えたいと彼は願っているのです。しかし主はそれを押しとどめて、この地に残って、自分の身内から始めてこの地の人々に主がしてくださった大きな憐みの業を宣べ伝えるように命じられました。郷里の人々に対して、彼は神の国の宣教の務めを与えられて、派遣されようとしています。彼が宣べ伝えることによって、郷里の人々に一時的な混乱が生じることがあるかも知れません。しかし、必ずその混乱を超えて平安と救いとがこの地にもたらされることを主は確信しておられます。彼は主の命令に従いました。

最後に現地の人々に目を向けてみましょう。外からやってきたイエスによって、さまざまな思いもよらないことを見せつけられた人々は、主にこの地から出て行くことを求めました。侵入者によってこれ以上自分たちの生活を混乱させられたくないという思いからです。彼らは男の身に起こった事柄の中に神的なものを見ようとするよりも、自分たちの生活の安泰を選んだのです。「現状維持が安全」という生き方からは新しいものは生まれてきません。自分たちに構わないでほしいと願う人々に、主が食い込んでくださることを願って、わたしたちも主の証しをいよいよ強めなければなりません。