「七人の奉仕者の選出」

使徒言行録6章1-7節

教師 久野 牧

エルサレムに建設された初代教会は、宣教活動によって弟子たちの数、すなわち信仰者の数が増えて行きました(1節)。宣教の実が実っているのです。そのように順調な歩みを続けているように見えた教会の中に、今、一つの問題が生じています。それは教会内の二つのグループの間に起こったことでした。

二つのグループの中の一つは、「ギリシア語を話すユダヤ人」たちです。彼らは、もともとユダヤ人なのですが、両親あるいは祖父母たちの時代に外国に移り住んだために、母国語のヘブライ語を話すことが出来ず、ギリシア語(外国語)を話す人々でした。彼らは今エルサレムに戻って、信仰者となっています。他のグループは、「ヘブライ語を話すユダヤ人」で、先祖以来イスラエルの国に住み続け、ヘブライ語を話すユダヤ人で、ギリシア語はあまり理解できなかったかも知れません。前者は少数のグループであり、後者は多数のグループです。

その当時、教会においては貧しい人々に食料や物資の配分がなされていました。それは、公平・平等が原則です。しかし実際は少数派のギリシア語を話すやもめたちは、ヘブライ語を話せないこともあって不利益を受けることがありました。そのことに対する苦情が、教会の中で公になって来たのです。

その問題は指導者である使徒たちの耳に入りました。彼らはそれを軽く考えず、解決のために立ち上がりました。彼らは信者たちを集めて、二つのことを述べました。一つは、使徒たちはこれまで、み言葉の宣教の務めだけではなく、食料の分配のことにも携わってきた、しかし今後は分配のことは他の人に任せて、自分たちは宣教と祈りという本来の務めに専念したい、ということです。そうすることによって、主から託されている教会の主たる務めを推し進めて行きたいと考えています。

そのために第二のこととして、今後は食料の分配は、それに専念する人たちを選び出して、彼らにその仕事を任せよう、ということです。その選出に当たって、使徒たちが出した条件は、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選ぶ」(3節)というものでした。祈りつつ聖霊の賜物を求める人、他の信仰者たちに心遣いの出来る人、「仕えられるよりも仕えること」ができる人を選ぶようにと使徒たちは求めました。こうして選挙が行われ、その結果、七人が選ばれました。

その人たちの名前は5節に記されています。わたしたちには分かりにくいのですが、これらの人々の名は皆、「ギリシア語を話すユダヤ人」に属する少数者のものと考えられています。不公平を解消するためになされた選挙において、このような結果が得られたのは、聖霊の導きがあったからこそです。この七人の人たちは、使徒たちによって按手のために手をおかれ、必要な聖霊の賜物が与えられるようにと祈られることによって、その務めにつきました。今日の執事職の始まりをここに見ることが出来ます。

教会内に問題が生じたとき、それは教会の危機となることもあれば、飛躍のときともなります。エルサレム教会では、信仰者たちが皆召集されて教会会議が開かれ、それによって良い結果を与えられました。7節に教会のその後のことが喜ばしく報告されています。主の名によって集い、主の御心を求めて祈り、協議するとき、必ずそこにみ旨に適った結論が与えられたり、また向かうべき方向性が示されます。今日の教会にとっても、このことはとても大切なことであることを教えられます。

「人間に従うよりも、神に従え」

使徒言行録5章12-32節

教師 久野 牧

使徒ペトロたちは、エルサレム神殿のソロモンの回廊で人々に福音を説いていたとき、祭司長たちや神殿守衛長によって捕らえられて、牢に入れられました(4:1-3)。一度は使徒たちは釈放されたのですが、そのあと再び彼らは同じ場所で、み言葉を説き、癒しの業を行いました(5:12)。権力や敵対者を恐れない彼らの勇気ある姿をそこに見ることが出来ます。

12-16節を見ると、使徒たちの周りには多くの人々が集まっていたことが分ります。その中には、使徒たちを遠くからただ見続ける人たち、使徒たちを称賛するだけの人々、主イエスを信じる者とされた人たちなどがいました。さらに17節では、彼らに敵対する者たちが再び現れて、使徒たちを捕らえ牢に入れたのです。彼らは使徒たちに対するねたみに燃えていました(17)。最初の逮捕は、使徒たちが主イエスの復活を宣べ伝えていたことがその理由でしたが(4:2参照)、今回はねたみという人間的な感情がその背景にあります。福音が説かれるところでは、さまざまな反応があります。そして使徒たちの時代には、とりわけ力づくでその活動を止めさせようとする者たちが必ず現れ出て来たことを知ることが出来ます。

前回の捕らわれの時には、使徒たちは「今後イエスの名によって話したり教えたりしてはならない」という脅し付きで釈放されました。しかし今回は、主の天使がやって来て使徒たちを解放しました。そして次のように命じたのです。「この命の言葉を民衆に告げなさい」(20)。彼らは主の天使が命じるままに、主イエス・キリストが唯一の救い主であることを再び前回と同じ場所で語り始めたのです。天使による解放は、使徒たちをより安全な場所にかくまうためのものではなくて、み言葉を語らせるためのものでした。主イエスのなさることは、人知を超えています。

神殿当局者たちはそのような使徒たちを再び拘束して、最高法院で裁判にかけました。彼らは強い調子で尋問しています。「イエスの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか」(28節参照)。それに対して使徒たちはこのように答えましした。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(29)。これは第一回の逮捕の時にも彼らが口にした言葉でした(4:19参照)。この世の権力者たちは「語るな」と命じています。一方、主なる神は天使を通して、主イエス・キリストについて見聞きしてきたことをありのままに「語れ」と命じています。正反対の命令が使徒たちの耳に響いてきます。そうした時の彼らの行動の規準はいつも、「人間に従うよりも、神に従わなくてはならない」ということでした。それが「キリストの証人」としての唯一のあり方です。その姿勢が貫かれることによって、福音宣教の業は進展し、各地に教会が建てられることに結びつきました。

どのような時代であっても、キリストを信じ、キリストに従う者がとるべき姿勢は、使徒たちによって示されています。その姿勢を貫こうとするときに、それに必要な力も勇気も、そして語るべき言葉も、主なる神は必ず与えてくださいます。それが主の約束です。わたしたちの教会も、その主の約束を信じて、使徒たちに倣う教会としての歩みをこの地で強めて行かなければなりません。今日においても、教会には様々な圧力が見える形で、あるいは見えない形で加えられます。そのような時、わたしたちはエルサレム神殿での使徒たちの毅然とした姿を思い起こし、それに倣いたいものです。そうするとき、わたしたちもこの時代における「キリストの証人」としての働きを、力強くなすことが出来ます。

「神を欺く罪-アナニアとサフィラ-」

使徒言行録5章1-11節

教師 久野 牧

エルサレムに形成された初代教会は、信仰者のそれぞれが自分の持ち物を教会のために差し出して、それを共有し合う共同体としての歩みを始めました。なかにはバルナバのように自分の畑を売って、その代金のすべてを教会に献げた人もいました。そのような教会の中で、一つの悲劇的出来事が起こりました。それはアナニアとサフィラ夫妻を巡ることでした。彼らもバルナバのように、自分たちの土地を売って、その代金を教会に献げました。しかし彼らの場合、すべての売上金を献げたのではなくて、「代金をごまかしてその一部を持って来た」のです(5章1節)。つまり、土地を売った代金のうち、ある程度の部分を自分たちの懐に入れて、その残りを、これが代金のすべてであるかのように献げたのです。

このことがペトロの察知するところとなりました。ペトロはまず夫アナニアに事実を確認しました。そしてその行為は、「人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と厳しくとがめたのです(5章4節)。その言葉の後、アナニアは倒れて、息が絶えてしまいました。しばらくして、妻のサフィラもペトロからの質問を受けて偽りの答えをしました。その結果、彼女も倒れて息が絶えました。なんという悲惨な出来事が起こったことでしょうか。

これには理解しがたいことがいくつかあります。そのためにアナニアとサフィラ夫妻に対する同情論も教会の歴史において生じてきました。一つの疑問は、自分の土地を売った代金の一部を自分のためのものとすることは、許されないことなのかということです。それは本来許されることでしょう。しかしこの夫婦の場合、教会に献げたものは土地を売った代金のすべてだという偽りを言ってしまいました。彼らは正直に言えばよかったはずですが、そうはしませんでした。そこに大きな罪があるのです。そのことをペトロは、「あなたがたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」という言葉で彼らの偽りの行為の本質を糾弾しています。教会に不義や偽りや虚栄が入り込んではならない、ということが示されます。

その偽りの結果二人とも倒れて息絶えたのですが、ここで次の疑問が生じます。それはペトロが二人を打ったのだろうかということです。しかし聖書はそうは記していません。彼らはただ倒れて息絶えたと記されいるだけです。それはつまり彼らは神によって打たれたということを示唆しています。神の厳しさが彼らに臨んだのです。わたしたちはこの出来事をそのままに受け入れるほかありません。

さらに彼らに悔い改めや赦しの機会が与えられなかったことに対して、気の毒な思いを持つ人もいることでしょう。確かにそうかも知れません。しかしこれから大きく成長していくべき生まれたばかりの教会が、最初からその姿勢をあいまいにしたまま歩みを続けることは、主なる神がお許しにならなかったのです。ローマの信徒への手紙11章22節に次のように記されています。「神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては、厳しさがある…」。その神の厳しさが、教会を真実な教会として形成していくのです。

教会は神の神殿であり、神の霊が住んでおられるところです(コリントの信徒への手紙一、3章16-17節)。この神殿を人間の不正や偽りによって汚したり、壊したりすることは許されません。そのことを教えるために、神は二人に対してこのように厳しく臨まれたのでしょう。エルサレム教会はこの悲惨な出来事から多くを学び、姿勢を正すことが求められています。

「信者たちの持ち物の共有」

使徒言行録4章32-37節

教師 久野 牧

ペンテコステ以後、主イエスの弟子たちを中心にして「信じた人々の群れ」(32節)が形成されました。これは、まだ組織や制度は整っていませんが、キリストの体である「教会」が形成されたということです。その特質は、次の四つの項目にまとめることが出来ます。

(1)彼らは心も思いも一つであったこと(32節)
(2)彼らは持ち物を共有する集団であったこと(32節)
(3)この群れを率いる中心的立場にいた使徒たちは、大いなる力をもって、主イエスの復活を証しし続けたこと(33節)
(4)キリストを信じるこれらの人々は、他の人々から非常に好意を持たれていたこと(33節)

このなかで特に二つのことについてさらに考えてみましょう。その一つは、信じる人たちが「心を一つにしていた」ということです。この語は使徒言行録の著者ルカがよく用いるものですが(4章24、32節、5章12節)、内容的には、耳を傾けること、祈りをささげること、讃美を歌うことにおいて、皆同じ方向を向いていたということです。彼らの耳と目と口は、復活の主イエスに向けられていました。彼らは共通のみ言葉と教えに耳を傾け、共通のお方に信仰の眼差しを向け、共通のお方を賛美しつつそのお方を人々に宣べ伝えました。また、パンを裂くことを通して共通のお方の命に触れることが出来ていました。そのことが、彼らが心を一つにすることが出来た最大の要因です。

そしてそのような彼らの一致は、一丸となって復活の主イエス・キリストを群れの外にいる人々に宣べ伝え、証しする行為となって表れ出ました。それによってさらに主イエスとの出会いを与えられた人々が、悔い改めを促され、教会へと導かれました。それは熱狂的でも狂信的でもなく、確信をもって誠実になされたことでしょう。それが、この群れが、外の人々から好意を持たれることに結びついています。彼らは信仰に生きることによって、キリストの善き香りを放っていたのです。

もう一つ注目しておきたいことは、信じた人たちが財産を共有していたということです。彼らの中には富んでいる人もいたでしょうが、多くは貧しい人々であったにに違いありません。それらの人々が心を一つにして信仰共同体を形成していくとき、強制や命令によるのではなく、自然なかたちでそれぞれが自分の持っているものを差し出して共有したり、分配するということがなされたのでしょう。それも思いが一つにされていたからこそできたことでした。しかしこのような財産共有の共同体については、使徒言行録においてこのあと記されるということはほとんどありません。逆にそのことについては語られなくなります。それは財産共有の共同体という形が長く続かなかったということかも知れません。このことについては丁寧な考察が必要ですので、今回はこれ以上触れないことにいたします。

最後にキプロス生まれのユダヤ人であるヨセフ、あるいはバルナバと呼ばれる人の教会への献げものについて記されています。自分に与えられた財産を、教会のためにすべて献げることによって自分自身を献げようとすることは、今日でもあり得ることです。しかしそれは、今改めて社会問題となっている旧・統一教会における献金とは全く質が異なるものであることを、わたしたちははっきり認識しなければなりません。今日、教会において献金について丁寧な説明がなされることはとても大事であることを思わせられます。 

「隅の親石となられた主イエス」

使徒言行録4章1-12節

教師 久野 牧

ペトロとヨハネが足の不自由な人を癒した後、多くの人々が二人のもとに集まってきました。二人は、この出来事は、自分たちの人間的な力によるものではなくて、復活の主イエス・キリストの力によるものであることを、彼らに説明しました。そしてこの主イエス・キリストこそが、イスラエルの人々が長い間待ち望んできたメシア(救い主)であることを証ししたのです。

このことは神殿内で起こりました。そのために神殿のすべてのことに責任を持っている祭司たちや神殿守衛長、サドカイ派の人々が不安や怒りを覚えて、二人を捕らえて牢に入れてしまいました。彼らは多くの人々が二人の周りに集まっていることから、神殿内の秩序のことを心配したのかも知れません。また取り締まりに来たのが復活を信じないサドカイ派の人々が多かったことを考えると、主イエスの復活を力強く証しするペトロたちの教えを、彼らが到底受け入れることが出来なかったということも、二人が捕らえられた理由であったことでしょう。

捕らえられた二人は、次の日エルサレム議会が招集されて、裁判にかけられました。エルサレム議会は、最高裁判所の働きもしていました。議員たちは二人に、「お前たちは何の権威によって、また誰の名によって、こういうことをしているのか」と問うています。つまり、足の不自由な人を癒したこと、そして多くの民衆に向かって、イエス・キリストこそメシアであると説いているのは、どのような権威に基づいて行っていることなのかを尋問しています。彼らは、ペトロとヨハネの背後にいる者はいったい何であるかを確かめようとしているのです。

それに対してペトロは「聖霊に満たされて」(8)語りました。「これは先ごろ、イスラエルの人々が、神を冒涜する者として十字架の死へと追いやった神の子、ナザレの人、イエス・キリストによるものである」とはっきりと述べています。その際ペトロは、旧約聖書の詩編118編22節の「家を建てた者たちによって捨てられた石が、新しい家の親石・土台となった」という比喩的言葉を引用して、これはイエス・キリストのことを指しているのだということを明らかにしています。つまり、詩編の句が預言していることが、イエス・キリストによって成就したということです。神の救いの御計画が、今こういう形で現実のこととなったことを証ししています。議会の人々もイスラエルの人々も、初めて聞くこのことに、大きな驚きを覚えたことでしょう。人間の過ちを用いてまでも、ご自身の救いの御計画を罪人たちのために遂行してくださる神の憐みの大きさが、わたしちの心を捕らえます。ペトロたちは旧約聖書との関係にも触れながら、この主イエス・キリスト以外に、わたしたち罪人を救い得るお方はいない、と力強く宣言しています。少しの陰りもないイエス・キリストを証しする言葉を、わたしたちはここに聞くことが出来ます。

このような大胆な発言は、主イエスがかつて弟子たちに向かって「あなたがたが裁判の席に立たされることがあっても、わたしがあなたがたに語るべき言葉を授けるから、心配するな」(ルカ21章12-15節)と約束されたことが、そのとおりに起こっているものであることを、わたしたちはここに見ることが出来ます。主イエスの約束は必ず果たされます。そしてこの約束は、わたしたちにも与えられていると信じてよいのです。どんな場に立たされても、わたしたちには主イエスを証しする言葉と力と勇気とが、聖霊によって与えられます。そのことを信じて、わたしたちも恐れなく、復活の主イエス・キリストを証しする者としての歩みを続けて行きましょう。今日、教会の存在意義が強く問われています。

「命への導き手である主イエス」

使徒言行録3章11-26節

教師 久野 牧

今日のテキストは、先月の足の不自由な人がペトロとヨハネによって癒された物語の続きで、その出来事に対する人々の反応と、それを巡って語ったペトロの説教が記されています。この出来事を目撃した群衆は、こうしたことが出来る弟子たちはいかなる人物なのかと大きな関心をもっています。弟子たちはこの出来事がどうして起こったのかを説明して、正しい理解を与えることの必要性を覚えるとともに、彼らが向けている自分たちへの関心を、復活の主イエスに向き変えなければならないとも考えています。そのために、ペトロは神の御計画について語ります。

ペトロは初めに否定的な面から語っています。それはこの人が癒されたのは、ペトロたちが持っている人間的な力によるものではないということです。そして人々が真に注目すべきものとして、この出来事の中心に立っておられる目に見えない主イエスを指し示します。さらにこのお方が、自分にとってどのような存在であるかを一人ひとりが真剣に問うように求めるのです。主イエスの力が発揮されることになったのは、癒された男の人の中にある小さな一途な信仰と、主イエスを絶対的に信じる弟子たちの信仰によります。ペトロは何とかして、その信仰を通して働いてくださる復活の主イエス・キリストに、人々の目を向けさせようとしています。

主イエスについて語るとき、ペトロは旧約時代のことから説き明かします。イスラエルの人々が信じている神は、時が満ちて救い主としてイエス・キリスト遣わされた。しかし人々がその主イエスを十字架の死に追いやった事実を述べています。これによってイスラエルの人々が犯した大きな過ちを確認しています。これはその後に続く神の恵みに満ちた事柄へと人々を導くために、どうしても見逃すことが出来ない歴史的事実なのです。次に神は人々が死へと追いやったイエスを、死者の中から復活させられた、と確信をもって語っています(15節)。人々が拒絶し、死の世界へと追いやった神の僕を、神は死者の中からよみがえらせて、人の罪や死の力にまさる神の力をお示しになられました。それによって大きな罪を犯したイスラエルの人々に対する神の愛をも示されたことを、ペトロは強調しています。その神の愛の生きた証拠が、足の不自由な人が癒された出来事である、と訴えています。

説教の第二段階において強調されていることは、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて(神に)立ち帰りなさい」の言葉につきます。そうすれば神は必ず赦してくださると確信をもって語っています。それが神の救いの御計画であることを旧約聖書との関係で説いています。さらにイスラエルの民が神に立ち帰ることによって、イスラエル自身が終わりの裁きの時に備えることになると同時に、この世界をも終わりの時に備えさせることになるのだ、ということが20節以下で展開されています。ペトロは人々に、終わりの時への備えは、何よりもイスラエルから始められるべきであると、「祝福の基」としての自覚を促しているのです。

ところで教会は新しいイスラエルと呼ばれます。歴史上のイスラエルが実際には果たすことができなかった務めを果たすために、神は新しいイスラエルとして教会を招集されました。多くの命が損なわれ、奪われているこの時代の中で、真の「命への導き手」(15節)である主イエスへの立ち帰りと信仰こそがこの世の祝福と希望の唯一の拠り所ある、と語るペトロの言葉は、まずわたしたちがしっかり聞いて、次に確信をもってこの世界に語らなければならないものです。佐賀の地において集められた新しいイスラエルとしてのわたしたちの教会は、主のご委託の務めを果たすために真剣に祈りつつ、務めに全力を傾けたいと願います。

「祈りつつ動き出す弟子たち」

使徒言行録1章12-26節

教師 久野 牧

よみがえられた主イエスが天に昇られた後、弟子たちや主に従ってきた人たちは如何なる生活を送ったのでしょうか。そのことが13-14節に記されています。ここにあげられている人々を、三つのグループに分けて考えることが出来ます。

その第一は、主イエスが選ばれた弟子たちです。それは彼らから離れて行ったイスカリオテのユダを除く十一人の弟子たちの集団です。彼らは主が逮捕されたときや主の十字架の時には皆主のもとから逃げていましたが、復活の主との出会いの後、再びまとまった集団となりました。第二のグループは、「婦人たち」です。これは主が北のガリラヤから南のエルサレムまで宣教の業をしながら旅を続けられたときに、主に忠実に従い仕えてきた女性たちです。彼女たちは主の十字架や葬りの時にも立ち合いました。さらに第三のグループとして、主イエスの母マリアと主の兄弟たちがいます。彼らは当初は主に対して必ずしも好感を持ってはいませんでしたが、今は主を信じる集団の一員となっています。これらの人々は、エルサレムのある家に集まって、「皆…心を合わせて、熱心に祈って」(14節)いました。その祈りの内容は、復活の主が約束してくださった聖霊を求めるものであったに違いありません。やがて神の使者として宣教に出て行くために必要な力の源である聖霊が降ることを祈り求めていました。そしてこの祈りはやがて神によって聞かれることになります。

15節以下を見ると、このように集まって祈る集団の周りには、ほかに全体で120人ほどの人々がいたことが分ります。ペトロは彼らに対して演説をしていますが、それは16-22節に記されています。その中心的な内容は、主イエスが選ばれた十二弟子の中からユダが主を裏切り、そして死んでしまった、だからその欠けを補うために一人を選んで、「十二」という数字を満たさなければならない、というものです。十一弟子たちは、自分たちの仲間であったユダが抜け落ちた痛みを覚えながら、なお主の弟子としての務めを果たすために、一人を補おうとしています。そしてこの弟子たちはやがて「使徒」と呼ばれるようになります。

ペトロは使徒としてふさわしい条件・資格を二つあげています。その一つは主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けて公に宣教活動を始められてから昇天にいたるまで、主と共にいた者ということです。もう一つは「主の復活の証人」と言われることで、復活の主との出会いや交わりの中で主の復活の確信を揺るぐことなく抱いている者ということです。どちらも主イエスの歴史的な存在や働きや、主の身に起こった重大な出来事に固く結びついた事柄が内容となっています。人間的能力や資質ではなく、ただ生けるキリストとの関りの中で、使徒たるにふさわしい働きをすることが出来る者ということが考えられています。今日における教会でのさまざまな務めにつく者の選出も、この基本的な原則に倣うべきでしょう。

この二つの条件・資格を満たす者として、二人の者が挙げられました。この二人のうちどちらを選ぶかは、くじによって決められました。その結果マテイアが選ばれて、十一人に加えられました。こうして聖霊が降るのを待ち、宣教へと派遣されようとしている弟子たちの側の準備が整えられていきました。あせらず、祈りに集中し、神が動き出されるのを待つ弟子たちの集団の上に、やがて約束の聖霊が降るのです。神は祈りつつ待つ者にふさわしい賜物を与えてくださいます。わたしたちの教会は今なすべき務めを誠実に果たしつつ、神が新しく動き出される時を、祈りをもって待つものでありたいと願います。

「昇天の主イエスの約束」

使徒言行録1章3-11節

教師 久野 牧

復活された主イエスは、40日間、弟子たちの前に姿を現されたあと、天に昇られました。その10日後に聖霊降臨の出来事が起こりました。ここで「40」という数字が深い意味を込めて記されています。40という数字は聖書にしばしば登場します。旧約では出エジプトをしたイスラエルの民の荒野の放浪年数が40年と記されています。新約では、主イエスが神の国の宣教という公生涯に入られる前に、荒野でサタンの誘惑に遭われた期間が40日でした。40という数字は機が熟するための準備の時といった意味を持っています。弟子たちにとっては、主の復活を確信できるようになるために40日間が必要でした。今その時が満ちようとしています。

わたしたちそれぞれの信仰の歩みにおいても、この40日に相当する日々がその時々に備えられてきたことでしょう。そしてもしかすると、わたしたちの教会は今、次の段階に備えての「40日間」の時を過ごし始めているのかも知れません。その時期は忍耐の時ですし、また希望の時でもあります。教会にとっての「40日間」が早く満ちて、次の段階へと進みたいものです。

この40日間のある時の食事の様子が、4-5節に記されています。そこに「聖霊による洗礼」という耳慣れない言葉が用いられています。要するにそれは、聖霊の神の働きを受けて、弟子たちが新たに造り変えられることを意味しています。またこれによって新しい時代の到来が予告されています。これまでは、主ご自身が神の御心を弟子たちに直接教えて来られました。しかし新しい時代が始まりました。これからは地上の主イエスに代わって聖霊なる神が弟子たちを導いて行かれます。それは<聖霊の時代>が始まったということです。聖霊を受けた弟子たちはそれをきっかけに復活の証人として、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」(8節)主の証人として働くのです。

そのような宣教や証しの働きをする時の力は、人間的な志の強さや情熱によるものではありません。聖霊の賜物としての言葉と勇気によってこそ、主の復活を証しすることが出来る者となります。それは祈ることによって与えられます。聖霊の賜物が与えられることと祈りは、深く結びついています。今わたしたちの教会にとって必要なことは、この祈る姿勢を強めて行くことではないでしょうか。「神よ、わたしたちの教会の今の状況に御目をとどめてくださって、この教会に必要なものを備えてください」との祈りをいよいよ強くしていきたいものです。

主イエスは40日間にわたって語るべきことを語り終えたあと、天に上げられました。人の目には見えない神のもとに戻られたのです。主が昇って行かれた天を見上げ続けている弟子たちに、天の使いが、主は再び来られるとの約束と希望とを告げています(11節)。それゆえ弟子たちはいつまでも天を見上げ続けるのではなくて、天を見つめる目を次には地に向け直さなければなりません。彼らの働きの舞台は地上なのです。その働きを主は天から見つめてくださり、必要な励ましや支えやときには戒めを、聖霊を通して与えてくださいます。弟子たちには、そしてわたしたちには、天から見つめる主がおられます。この主は憐みに富み、慈しみ豊かで、わたしたちの弱さや貧しさをすべてご存じでいてくださいます。わたしたちの教会のこともすべてご存じです。この方の眼差しの下で、また天から遣わされる聖霊の力によって、わたしたちも誠実な復活の主の証人としての働きを続けたいものです。