主日礼拝 2020.12.06(待降節第2週)

奏楽富樫 理子
招詞詩編132編10~12節  (旧約p974)
讃美歌2  いざやともに
祈祷
聖書マタイによる福音書1章1~17節 (新約 p1)
信仰告白使徒信条
讃美歌161  インマヌエルのきみのみ
説教「イエス・キリストの系図」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
(待降節 第1回)
祈祷
讃美歌94  ひさしくまちにし
聖 餐 式
讃美歌202  くすしきみすがた
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄541  ちち、みこ、みたまの
祝祷
後奏

主日礼拝 2020.11.29(待降節第1週)

奏楽古賀 洋子
招詞詩編30編2~4節   (旧約p860)
讃美歌1  かみのちからを
祈祷
聖書詩編102編20~23節     (旧約p939)
マルコによる福音書5章11~20節
信仰告白使徒信条
讃美歌73  くすしきかみ
説教悪霊からの解放
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌380 たてよいざたて
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄540 みめぐみあふるる
祝祷
後奏

「悪霊からの解放」

マルコによる福音書5章11~20節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

墓場を住まいとしていた男の人は、今主イエスと出会っています。主が彼の名を聞かれたことは、彼との深い関係の始まりです。ただ、この男の人の口から発せられる言葉は、わたしたちにとっては分かりにくいものがあります。それは、彼自身が言っているのか、それとも彼に取りついた汚れた霊どもが言っているのか、その区別ができないからです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」というのは彼自身の言葉でしょう。一方、自分たち(複数)をこの地方から追い出さないように願っているのは、彼の中にいる汚れた霊たちです。わたしたちは、彼自身と彼を狂わせている汚れた霊たちとが、区別されないほどに彼自身の中で一体化している険しい現実を見せつけられます。

次に難しく思われるのは、汚れた霊どもが彼の中から出て行って、そこにいた二千頭の豚に乗り移った現象です。何が起こったのでしょうか。ただ一つはっきりしていることは、この男の人が自分の中に住みついている霊が自分から出て行ったことを確信できるためには、それを証拠立てる目に見えるしるしが必要だったということです。そのしるしとして、乗り移った霊によって豚の大群が湖になだれ込むという特別な事象を主は起こされたのです。ここで別の視点から問題にされるのは、二千頭の豚の死です。それがひとりの人の癒しに必要だったとしても、豚の所有者の立場から言えば、貴重な財産が失われたことであり、大きな損失です。そのことに関しては、聖書は何も述べていません。今日的な価値観に立って主を責めることよりも、ひとりの失われた人が癒され、社会へと回復させれられたことをわたしたちは喜ぶべきでしょう。

さて、主によって癒され、本来の姿に戻ったこの人は、主がこの地を離れようとされるとき、主に同行することを願い出ました。それは、自分を墓へ追いやったこの地の人々と共に住むことを忌み嫌ったからというよりも、主イエスと共に新しい生き方をしたいと願ったからではないでしょうか。主に従い、神の国のために仕えたいと彼は願っているのです。しかし主はそれを押しとどめて、この地に残って、自分の身内から始めてこの地の人々に主がしてくださった大きな憐みの業を宣べ伝えるように命じられました。郷里の人々に対して、彼は神の国の宣教の務めを与えられて、派遣されようとしています。彼が宣べ伝えることによって、郷里の人々に一時的な混乱が生じることがあるかも知れません。しかし、必ずその混乱を超えて平安と救いとがこの地にもたらされることを主は確信しておられます。彼は主の命令に従いました。

最後に現地の人々に目を向けてみましょう。外からやってきたイエスによって、さまざまな思いもよらないことを見せつけられた人々は、主にこの地から出て行くことを求めました。侵入者によってこれ以上自分たちの生活を混乱させられたくないという思いからです。彼らは男の身に起こった事柄の中に神的なものを見ようとするよりも、自分たちの生活の安泰を選んだのです。「現状維持が安全」という生き方からは新しいものは生まれてきません。自分たちに構わないでほしいと願う人々に、主が食い込んでくださることを願って、わたしたちも主の証しをいよいよ強めなければなりません。

主日礼拝 2020.11.22

奏楽
招詞出エジプト記34章6~7節   (旧約p151)
讃美歌62  主イエスのみいつと
祈祷
聖書詩編88編4~8節       (旧約p925)
マルコによる福音書5章1~10節
信仰告白使徒信条
讃美歌70  ちち、みこ、みたまの
説教墓場を住まいとする人
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌339 きみなるイエスよ
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄540 みめぐみあふるる
祝祷
後奏

「墓場を住まいとする人」

マルコによる福音書5章1~10節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

わたしたち人間にとって屈辱を覚えたり、耐えられない思いにさせられることは何でしょうか。人によって異なるかも知れませんが、おおむね共通のこととして、人間としての尊厳が奪われること、また自分の存在が無視されるということがあるのではないでしょうか。今日でも、ある人が他者の存在を傷つけることは人間疎外・人格否定という形で、現実にしばしば起こっています。

そのように人間としての尊厳が傷つけられた時、人はどのような反応を示すでしょうか。その一つは外に向かう反応で、自分を守るための手段として暴力を用い、自分の存在を荒々しく主張するということがあります。今日登場する男は名前を聞かれたとき、ローマの軍隊を意味する「レギオン」という名で自分を言い表しているのも、その一つの表れです。他方、内面に向かう反応もあり、その場合は悔しさや悲しさや痛みが激しく自分を責めさいなみ、心と体の変調をきたすという痛ましい状態になってしまいます。その人は異常な精神状態、いわゆる「狂った」と人から見られる状態に陥るのです。

今日主が出会われた男の人は異邦のゲラサ人であり、「汚れた霊に取りつかれている」ということで説明されるような、自分の力では制御できない異常な精神状態に置かれています。そのため人々によって墓場に追いやられました。その惨めさの中で、彼は自分を縛る鎖や足かせを破壊するほどの力を表していました。しかし、それによって他者を傷つけることはしませんでした。自分自身を傷つけ、石で打ち叩き、大声をあげて日々を過ごしていました。人から傷つけられたくないという思いが、自傷行為を行わせているのです。

そこに主が現れました。ガリラヤ湖のほとりで、先に「向こう岸に渡ろう」(4:35)と言われた向こう岸とは、異邦人のゲラサ人の地でした。墓場を住まいとしているこの人は、主イエスに出会ったとき「いと高き神の子、かまわないでくれ」と叫んでいます。精神の狂いの中にあっても、彼には聖なるもの・神なるものを見分ける力が備わっていたのかもしれません。さらに彼の「どうかわたしの邪魔をしないでほしい。ほっといてくれ」との叫びの背後に、これまで彼に関わった多くの人が彼を苦しめた過去が隠されているように思います。彼は他者に干渉されたくないのです。しかしそれは裏を返せば、真実に自分を受け止めてくれる人を求めている切なる叫びなのかもしれません。

主は彼の叫びにも拘らず彼に近づき、名前を尋ねられます。主は、この人は汚れた霊に取りつかれているという判断をなさって、次のように命じられました、「汚れた霊、この人から出て行け」と。その応答として「自分たちをここから追い出さないで欲しい」という言葉が記されています。これは彼の中に取りついている汚れた霊たちの叫びですが、実際は、彼自身の声として発せられたに違いありません。彼と、彼に取りついている汚れた霊たちは区別できないほどに一体化していることが分かります。主イエスは「かまわないでほしい」とのこの人の叫びに対して、「わたしはあなたに関わりたいのだ」と言って、彼の癒しに取り掛かられます。そのようにして主との出会いが彼に起こり、彼は癒されるのです。今もその主は働いておられます。

主日礼拝 2020.11.15

奏楽
招詞詩編18編5~7節   (旧約p847)
讃美歌61  かがやくみとのよ
祈祷
聖書ヨプ記38章8~11節(旧約p826)
マルコによる福音書4章35~41節 (新約p68)
信仰告白
讃美歌132  めぐみにかがやき
説教なぜ怖がるのか
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌292  はてしもしれぬ
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄540  みめぐみあふるる
祝祷
後奏

「なぜ怖がるのか」

マルコによる福音書4章35~41節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは数多くの奇跡をなさいましたが、今日のものは自然界に対して主が特別な力を表された出来事です。主は多くの群衆に神の国についての話をなさった後、ガリラヤ湖の向こう側のゲラサ地方に向かうために弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と声をかけられました。そのようにして主と弟子たちの舟は漕ぎだされたのですが、途中で激しい突風と波のために大きな危機に遭遇しました。弟子たちは必死になって舟を沈没から守るために働きました。しかしその状況は「おぼれ死ぬ」とさえ感じるほどでした。

その時弟子たちは、主イエスが船尾の方で眠っておられるのに気が付きました。弟子たちは怒りを抑えながら、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と声をかけ、主を起こしています。主は目を覚まされて、弟子たちに対してでなく波風に向かって「黙れ、静まれ」と叱られました。それによって「風はやみ、すっかり凪になった」のです。主は自然の力を制されました。そして弟子たちに対しては「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけておられます。これがガリラヤ湖の嵐の舟の中で起こった出来事です。

主は弟子たちの何を問題にされているのでしょうか。「まだ信じないのか」によって知ることができるのは、主は弟子たちが既に主に対して強い信頼をいだいていることを期待しておられたということです。寝食を共にし、神の国についての教えを繰り返し聞かされ、主の奇跡を通しての特別な力も体験してきた弟子たちでした。主はそうした弟子たちの内に主への揺るがない信頼が築き上げられている、と考えておられたに違いありません。しかし嵐の中での弟子たちの心は、主が期待しておられるところにまでは達していませんでした。

嵐の湖の中で漂う舟は古来、教会を象徴するものとして受け止められてきました。舟には主がおられる、しかしその舟も嵐にあうことがある、それは教会も同じです。その中で弟子たちは主への信頼を見失って自分たちの力ではどうしようもないところにまで追い込まれている、地上の教会も同じです。その時主ご自身が立ち上がって舟のために力を発揮してくださり、舟と弟子たちを危機から免れさせてくださいました。地上の教会も同じです。教会を危機から守ってくださるのは、いつも主です。

さらにこのことは、信仰者個人のことにも当てはまります。主を信じる道を歩みながら、さまざまな嵐にあうわたしたちです。慌てふためき、必死で自分の知恵と力でそれに対抗しようとします。しかしついに力尽きたところで主を思い出し助けを求めると、主はわたしたちを危機から助け出してくださいました。波に向かっての「ここまでは来てもよいが越えてはならない」(ヨブ記38:11)との言葉のように、この世の荒波を制してくださるのです。弟子たちと共に漕ぎだされた主が弟子たちを嵐から守られたように、この世に生きる信仰者を集めて、自らかしらとなって教会を結集された主は、「波にもまれてもなお沈まない」ものとして教会を守り、信仰者一人ひとりの歩みを支えてくださいます。だから「怖がらなくてよい」のです。

主日礼拝 2020.11.08

奏楽
招詞詩編126編5~6節   (旧約p971)
讃美歌58  かみよみまえに
祈祷
聖書マルコによる福音書4章26~34節
信仰告白
讃美歌67  よろずのもの
説教小さな種、大きな実り
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌234A  むかし主イエスの
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄540  みめぐみあふるる
祝祷
後奏

「小さな種、大きな実り」

マルコによる福音書4章26~34節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスの短いたとえ話が続いています。今日は26~29節の「成長する種のたとえ」と、30~32節の「からし種のたとえ」の二つです。それぞれについて考えてみましょう。

最初のものは、土の中にまかれた種が人の力によらないで成長していき、そしてついに実が熟して刈り入れの時が来るまでの様子を描いたものです。これは、種が本来持っている生命力の不思議さや神秘さを強調したものです。それによって、主は、そこで働く人の力を超えた神の力の神秘さに人々の目を向けさせようとしておられます。このたとえによって、み言葉の種がまかれて、それが少しずつ成長し、いくつかの段階を経ながら、ついには教会というかたちあるものが形成されるということが示唆されています。

実際の種まきの時に人間の働きが欠かせないように、み言葉の種まきにおいても人の働きは欠かせないものです。祈りや学びや交わり、そして証しなどの働きを通して、み言葉のもとに人々が結集して、教会が形作られます。しかしそのような出来事の本来的な原動力は、人間の力をはるかに超えた神の力です。使徒パウロは次のように述べています。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。ですから大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(コリント一、3:6~7)。

この成長させてくださる神に常に目を注ぎ、この方への熱い信頼に立って、わたしたちはただひたすら御言葉の種まきと水注ぎをしていけばよいのです。結果は、神がもたらしてくださるでしょう。

第二のたとえは「からし種のたとえ」と言われるものです。どんな種よりも小さいからし種が成長すると、想像できないほどの大きさになり、その枝に鳥が巣を作るほどになるという内容です。小さい始まりの中に、大きな実りが隠されています。主イエスの宣教活動も同じでした。神から派遣されてお一人で御言葉を宣べ伝え始められた主は、やがて12人の弟子を集められました。様々な困難に遭遇しながら、主は12人と共に神の国のことを人々に語っていかれました。弟子たちがこのたとえを聞いている時点では、主の周りにいる人々はほんのわずかでした。十字架の死の時には、その12人も散り散りになってしまいました。しかし、彼らは再結集され、主の復活を宣べ伝える者とされ、やがて教会の設立へと導かれて行きました。主はいつも「このままで終わることはない」と弟子たちを励まし続けられたのです。

地上のすべての教会も同じです。わたしたちの佐賀めぐみ教会も同様です。一人から、あるいは二、三人から始められた宣教の業は、「一人が種をまき、別の人が刈り入れる」(ヨハネ4:37)ということの連続や積み重ねの中で、やがて形あるものとなっていきます。成長させてくださる方が必ずそうしてくださるのです。その間の様々な困難や戦いを主はご存じです。その上でなお主は、わたしたちを種まきのために用いられます。主はその先に豊かな実りを用意してくださっているからです。

主日礼拝 2020.11.01

奏楽
招詞詩編98編1節 (旧約p935)
讃美歌55  きょうはひかりを
祈祷
聖書マルコによる福音書4章21~25節 (新約p67)
信仰告白信徒信条
讃美歌66  せいなるせいなる
説教あらわになる神の国
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌284  主のとうときみことばは
聖餐式
賛美歌206  主のきよきつくえより
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄540  みめぐみあふるる
祝祷
後奏