主日礼拝 2021.03.14

奏楽十時 やよい
招詞イザヤ書35章3~6節    (旧約 p1116)
讃美歌24   ちちのかみよ
祈祷
聖書マルコによる福音書7章.31~37節
信仰告白使徒信条
讃美歌90 ここもかみの
説教神の言葉を聞く耳・語る口」 
長老 古賀 洋子(原稿代読)
祈祷
讃美歌272 ナザレのふせやに
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄544  あまつみたみも
祝祷コリント二、13章13節によって
後奏

「それほど言うなら-異邦人の女の信仰-」

マルコによる福音書7章24~30節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは今「そこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた」(24)と記されています。「そこ」とは大まかにガリラヤ地方のことですし、「ティルスの地方」とは、イスラエルの北西方向の異邦人の町のことです。主はそこに宣教のために行かれたのではなく、ご自身の来訪が「誰にも知られたくないと思っておられた」と記されていますように、しばしの休息をとるために行かれたと考えられます。しかしその地方にもイエスの評判は広がっていて、すぐに主の滞在が人々の間で知れ渡りました。そして一人の女の人が主のもとにやって来たのです。彼女は悪霊につかれた娘の癒しを主に願い出ています。

しかし主は彼女に謎のような言葉を語られました。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。これはどういう意味でしょうか。「子供たち」とはイスラエルの民のことです。「小犬」とは異邦人のことです。そして「パン」とは神の救いの恵みのことです。つまり主イエスは、神の救いはまずイスラエルの民に十分与えられたのちに、続いて異邦人にも与えられる、と言うことを仰っておられるのです。なんだかとても冷たい言葉のように聞こえますが、主イエスは神の御計画や順序に従った救いの業の展開の原則を語っておられるのです。

それに対してこの女性は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と答えています。これも謎めいていますが、彼女は臨機応変に主の言葉に倣って自分を小犬と言い表して、主がせっかくこの地においでくださった今、小さな恵みを求めることは許されるのではないでしょうか、と訴えているのです。機知に富んだ答えである以上に、主の言葉の中に絶対的な否定はないことを感じ取った彼女の信仰の熱心が、これを言わせています。主が「まず」と言っておられることは、「次」があることを示唆しています。また主は一般にユダヤ人が異邦人に対して用いる「犬」ではなくて、言葉のきつさをやわらげて「小犬」と言っておられます。それらのことの中に女性は、拒絶ではなくて、むしろ更なる熱心をもって主ご自身に迫ってくることを主は許してくださっていることを感じ取ったに違いありません。だからこそ女性はあきらめずに求め続けます。主は「それほど言うなら、よろしい」と言われ、娘から悪霊が出たことを告げられました。この「それほど言うなら、よろしい」は、口語訳聖書では「その言葉で十分である」と訳されていました。主はこの女性のヘリくだりと、主に対するひたすらな信頼と、娘に対する熱い愛を、彼女の言葉に感じ取ってくださっています。そして娘の癒しによって彼女に応えてくださいました。こうして母と娘の二人が同時に「パン」に与ることができました。主は原則で動かれる以上に愛によって動かれるお方なのです。

この出来事は教会のこの時代におけるあり方を示唆しています。教会は、自分たちは主イエスによる救いなど関係がないと考えている、苦悩の中にある多くの人々を知っています。彼らに代わって、それらの人々にも「パン」を与えてくださいとわたしたちが熱心に祈り仕えるとき、「それほど求めるなら」との主のお言葉を聞き取ることができるに違いありません。

主日礼拝 2021.03.07

奏楽富樫 理子
招詞マタイ福音書17章19~20節    (新約 p33)
讃美歌23   くるあさごとに
祈祷
聖書マルコによる福音書7章.24~30節
信仰告白使徒信条
讃美歌88  すぎにしむかしも
説教それほど言うなら-異邦人の女の信仰-
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌344  とらえたまえ
聖餐式
賛美歌202  くすしきみすがた
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄544  あまつみたみも
祝祷
後奏

「人を汚すもの」

マルコによる福音書7章14~23節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスはファリサイ派の人々との清めを巡る問題から、さらにユダヤ人の間に巣食っている汚れの問題に話を展開しておられます。その場合の汚れとは衛生上の問題ではなくて、宗教上の問題です。そのことにおける主イエスの主張の中心は、「外から人の体の中に入る物が人を汚すのではなくて、人の中から出てくる物が人を汚す」ということです。それは人が清い、すなわち神から受け入れられるとか、汚れている、即ち罪があるとかということは、外面的なことではなくて、内面の問題であるということを意味しています。ユダヤ人は伝統的に、また昔の人からの言い伝えとして、食べて良い動物と食べてはいけない物を区別し、また決まった作法で身を清めたり手を洗ったりしなければ汚れを身につけてしまうという考えを持っていました。しかし主イエスはそうした「規定」を廃棄する意味で、「外から中に入る物が人を汚すのではない」と言っておられるのです。これによって主は旧約時代の限界を乗り越え、また人の言い伝えの制約を打ち破っておられます。

それでは主イエスは人を清い者としたり、汚れた者とするのは一体なんであると言っておられるのでしょうか。そのことについては、「人の中から出てくる物」が人を清くしたり、逆に汚れた者とするということで言い表しておられます。人の中から出てくるものとは、端的に言えばその人の「言葉」です。そしてその言葉が内包していることがらが、その人の行動を生み出すことを教えておられます。言葉はその人の心の内を映し出し、言葉は行いを生み出します。その心が神の思いを正しく捉えることができず、邪悪な思いに満たされているならば、その人の心から出てくる言葉も邪悪なものとなるし、その言葉に基づく行動も、神の御心に叶わないものとなります。それは人を傷つけ、共同体を破壊します。新約聖書のヤコブへの手紙(3:9~10)には次の言葉があります。「わたしたちは舌で、父である神を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです」。言葉を生み出す心の特質が見事に語られています。

主は人間存在にはこの次元があることを明らかにして、食べる物や食べる作法などが神の前での人間の評価を決めることにはならないことを教えておられます。サムエル記上(16:7)に次の神の言葉があります。「(わたしは)人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって(その人を)見る」。これは何と恐るべきことでしょうか。わたしどもがどんなに表面を繕っても、神がご覧になるのは、神との間で通じ合うことの出来るはずの心の内側であるというのです。誰がこの厳しい神の眼差しに耐えることができるでしょうか。しかし欠けを持ち、人を傷つけ、神のみ名を汚すことの多いわたしたちを神は憐れんでくださって、聖霊の炎によって心を清め、言葉を精錬し、そして行いを正してくださいます。心がけるべきことは次の言葉によって言い表されています。「いつも塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4:6)。聖霊なる神の炎によって清められた神賛美の言葉、そして人を生かす愛のこもった言葉を語る者でありたいと願います。

主日礼拝 2021.02.28

奏楽古賀 洋子
招詞エレミヤ書17章9~10節    (旧約 p1209)
讃美歌20   主をほめよ
祈祷
聖書マルコによる福音書7章.14~23節
信仰告白使徒信条
讃美歌87B  めぐみのひかりは
説教人を汚すもの
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌339 きみなるイェスよ
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄543  主イエスのめぐみよ
祝祷
後奏

「神の掟と人間の戒め」

マルコによる福音書7章1~13節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスの宣教活動が進められていくにつれて、主とファリサイ派の人々や律法学者たちとの対立が強まってきました。本日の出来事は、ユダヤ人の「清め」に関する言い伝えを巡ってのものです。ユダヤ人は、神から直接与えられた戒めや掟以外に、それらから派生した人間の手による数々の戒めを言い伝えとして持っていました。清めに関する決まりごとは、昔の人の言い伝えに属するものでした。それによると、人は食事をする前には手や食器を念入りに洗い、身を清めなければなりませんでした。それは衛生的観点からの規定ではなくて、宗教的な要素を強く持ったものでした。

ところが主の弟子たちは、その言い伝えを守らずに、洗わない手で食卓につく者たちもいました。ファリサイ派の人々はそのことを問題にして、主に「なぜなのか」と詰め寄っています。主の集団は汚れた集団、つまり罪人の集団であると彼らは考えています。しかし主は、彼らは昔からの言い伝えに対して形だけは守っているけれども、彼らの神に対する忠実さや誠実さは、決して御心にかなったものではないことをご存じでした。それで主は彼らに対して、イザヤ書の言葉を引用して、彼らを偽善者として厳しくとがめておられます。イザヤ書からの引用は、「この民は口先だけではわたしを敬うが、その心はわたしから離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、空しくわたしをあがめている」(6~7節、イザヤ29:13参照)です。つまり、形骸化した、心の伴わない形だけの掟の遵守は、神が決して喜ばれるものではない、と言うことを彼らに教えておられます。主は御心を物差しとして、自分たちの信仰を徹底的に吟味することを彼らに求めておられるのです。それは、今日のわたしたちの信仰のあり方にも通じるものであることを教えられます。

主は彼らにもう一つのことを語られました。それは「コルバン」という言葉を巡ってのものです。これはヘブライ語で、「神への供え物」という意味を持っています。人が自分の金銭や物品を神に捧げる物としてより分けておく場合、「これはコルバンです」と言えば、それは神への供え物以外には用いられなくなります。神への捧げものをより分けておく姿勢は基本的には大切なものを含んでいます。しかし、現実にはそれは悪用されることもありました。例えば、親が差し迫った状況の中でわが子に金銭的な援助を申し出た時に、それに応じたくない場合は、自分の持ち物に「コルバン」と言えば、それを親に差し出す必要がなくなるのです。神の戒めの中に「あなたの父と母を敬え」があります。今述べたような子どものあり方は、この戒めを犯していることになります。さらには親への尊敬と服従を通して、神への信頼と奉仕を求めておられる神の御心にも沿わないことになります。主は言われます、「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」。

わたしたちにおいても、「これこそが信仰的だ」とか「これこそが教会的だ」と主張することの中に、神の御心に沿わないものを含んでいることがしばしばあるに違いありません。信仰は、日々、神のみ言葉による吟味と点検を必要としていることを、深く心に刻みたいものです。

主日礼拝 2021.02.21

奏楽十時 やよい
招詞エレミヤ書10章10~11節    (旧約 p1195)
讃美歌19   みこえきくとて
祈祷
聖書イザヤ書29章13~14節    (旧約 p1105)
マルコによる福音書7章1~13節
信仰告白使徒信条
讃美歌85  主のまことは
説教神の掟と人間の戒め」 
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌334   いつわりのよに
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄543   主イエスのめぐみよ
祝祷
後奏

「わたしだ。恐れることはない」

マルコによる福音書6章45~56節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは本当にガリラヤ湖の水の上を歩かれたのでしょうか。そうした素朴な疑問を抱かせられる出来事が本日のテキストに記されています。わたしたちは奇跡が「しるし」と呼ばれることを踏また上で、主による奇跡がどのようになされたかということよりも、それは何を指し示し、教えようとしているのかに思いを向けながら、この出来事から教えられたいと願います。

五千人以上の人々にパンと魚を分け与えられた後、主は弟子たちに強いて向こう岸に渡ってしばらく休むことを指示されました。それは宣教活動や主による給食の奇跡などを経験した弟子たちに、これまでのことを振り返り、静かに祈る時を持たせることが主のご意図であったに違いありません。弟子たちは興奮状態の中で人々と共に主のなさったことについてもっと語り合いたいという思いもあったかもしれません。しかし主はそのような弟子たちを「強いて」人里離れた所に送りだされるのです。信仰にはある種の強制や制約が存在します。人間の意志よりも神の御意志によって動かなければならないという強制です。そうすることによってこそ、信仰者と教会は御心に叶った歩みをすることができるのです。「強いられた恩寵」という言葉を思い出します。

一方主ご自身は、一人で祈るために山に登られました。主にとっても休息と祈りの時が必要だったのです。その主の目に弟子たちの舟が逆風の中で漕ぎ悩んでいる様子が捉えられました。弟子たちは、沖にまで出た所で激しい向かい風のために前に進むことができなくなってしまいました。弟子たちには、こんな目に合うのだったら主のご命令に従わない方がよかった、という思いが生じていたかもしれません。彼らはこのような時にこそ、数々の力ある業をなさった主を思い出すべきだったのですが、それはできませんでした。むしろ主に対する不平不満の方が彼らの心を満たしていたことでしょう。

しかし、主は彼らの様子をご覧になっておられます。そして主は湖の上を歩いて弟子たちを助けるために舟に近づかれました。けれども弟子たちは薄暗い中で舟に近づいてくる人間のような姿を見た時に、幽霊だと思って恐怖におののきました。それはやむをえないことかもしれません。しかし聖書はそのときの弟子たちのことを次のように記しています。「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたから」(52)。これはどういう意味でしょうか。心が鈍いとは、これまでの主の言動から主ご自身を十分に理解することの出来なかった弟子たちの頑なな心、霊的鈍感さを表す言葉です。この言葉の背後に、弟子たちはもうとっくに、主は困難な時にこそ助けてくださるお方であることを確信してもよいはずなのだ、しかし彼らにはそれができていない、ということが暗示されています。弟子たちのこれまでの体験と主との交わりが、まだ彼らの信仰の力になっていなかったことを示すこの出来事を通して、マルコはわたしたちにも「あなたの信仰はどうなのか」と問いを投げかけています。

主は言われます、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。主は従う者たちをいつも見ていてくださいます。そして困難な状況にあるわたしたちに思いがけない方法で近づいて来て助けてくださるのです。

主日礼拝 2021.02.14

奏楽古賀 洋子
招詞詩編20編2~3節    (旧約 p851)
讃美歌16   いときよきみかみよ
祈祷
聖書マルコによる福音書6章45~56節
信仰告白使徒信条
讃美歌84  かみにたより
説教「わたしだ、恐れることはない」
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌298   やすかれ、わがこころよ
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄543   主イエスのめぐみよ
祝祷
後奏

「パン五つと魚二匹から」

マルコによる福音書6章30~44節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは宣教に派遣した弟子たちの報告を受けられた後、弟子たちをしばらくの間、人里離れた所に送り出そうとしておられます。彼らに祈りの時を持たせようとしておられるのです。しかし多くの群衆がついてきて、主イエスと弟子たちから離れようとしません。そのような群衆を主は「深く憐れまれて」、さらに神の国についての話をしてくださいました。そうこうするうちに日が暮れ始めました。弟子たちは夕食の世話などのことが気になって、主に「群衆を解散させてください」と言っています。弟子たちはお世話をしたくないのでしょう。それに対して主は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。弟子たちの務めを指示しておられます。

しかし、ここは人里離れた所であり既に夕刻である、群衆が何千人もいる、自分たちには十分なお金の持ち合わせもない、そのようにさまざまに思いめぐらして、弟子たちは主の命令は無理だと考えました。普通に考えれば彼らは間違ってはいないでしょう。どんなに見積もっても無理だと結論づけるほかない状況です。しかし、彼らの計算には大事な要素(ファクター)が欠落していました。それは、<主イエスの存在>という要素です。弟子たちは自分たちにとっての不可能性を導き出していますが、そうする前にしなければならないことがありました。それは、そこに主がおられるという事実を認識すること、その主に「どうしたら良いでしょうか」と問い、助けを乞うことです。

主は人々が持っているものがパン五つと魚二匹であることを確認されました。弟子たちにとってはこれだけでは何の役にも立たないという少なさでした。しかし主はパンを取って神に祈りをささげ、それを裂いて人々に分け与えられました。魚も同様にされました。その結果、すべての人が満腹し、さらに食べ物の残りを集めると12の籠いっぱいになったのです。そこにいた人々は、男の数だけでも五千人ですから、女の人や子どもたちもいたとすれば、さらにその数は膨らみます。主は彼らの飢えを癒してくださいました。「人はパンだけで生きるものではない」と言われた主は、また「日毎の糧を与えてください」と祈ることも教えられたお方でした。

弟子たちにとっては「パンは五つしかない、魚は二匹しかない」としか思えない状況が、主にとっては「パンが五つもある、魚が二匹もある」という見方に変わります。その少なさの中に大きな可能性が秘められていることを主は弟子たちと人々に教えるために、それらを用いて人々の満腹を造り出してくださいました。わたしたちにとって「~しかない」と思えるものであっても、主にとっては「~もある」と言われるものとなります。人間にとって何の役にも立たないと思えるものが、主にとっては大いなる可能性を秘めたものとなります。教会も信仰者もそういう存在として、それぞれのところに置かれています。

ここでパンを人々に与えられた主が、わたしたちの霊の飢えと渇きのために差し出してくださる究極のパンは、主イエス・キリストご自身です。主こそ真の命のパンです。群衆の前で裂かれたパンと魚は、やがて十字架の上で裂かれる主ご自身の体を指し示しています。