開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 十時 やよい
奏楽 | |
招詞 | エフェソ5章30~33節(新約 p358) |
讃美歌 | 11 あめつちにまさる |
祈祷 | |
聖書 | マルコによる福音書10章1~12節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 77 みかみはちからの |
説教 | 「神が合わせられたもの」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 334 いつわりのよに |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 540 みめぐみあふるる |
祝祷 | |
後奏 |
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 十時 やよい
奏楽 | |
招詞 | エフェソ5章30~33節(新約 p358) |
讃美歌 | 11 あめつちにまさる |
祈祷 | |
聖書 | マルコによる福音書10章1~12節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 77 みかみはちからの |
説教 | 「神が合わせられたもの」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 334 いつわりのよに |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 540 みめぐみあふるる |
祝祷 | |
後奏 |
主イエスは「小さい者」への愛をこれまで何度か説いてこられました。今日のテキストの冒頭でも、小さい者をつまずかせることに対する厳しい裁きの言葉を語っておられます。「つまずかせる」とはどういうことでしょうか。この語の本来の意味は、人の歩く道に石などを置いて歩く邪魔をする、妨害をすると言ったことです。これが信仰の世界において用いられると、自分の言葉や行いによって、信仰に生きる人の確信や主への信頼を揺るがして、主から切り離すことなどを指すことになります。意図的にあるいは無意識の内に、わたしたちはそのような言動をしてしまいがちです。それに対して主は今、それらの人は「海に投げ込まれる方がよい」と厳しい警告を発しておられます。なぜこれほど厳しい言葉が発せられるのでしょうか。
それは信仰に生きようとしている人たちは、次のような人たちだからです。「この兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(コリント一、8:11)。すなわちそれらの人々は御子の命が十字架に捧げられることによって、神のもとに取り戻された人たちなのです。そのように主の愛が注がれた人たちを、わたしたちは自分の軽率なあるいは悪意に満ちた言動によって主から切り離してはならないのです。そのことの重大さを示すために主は厳しい裁きを語っておられます。主はまたその言葉によって、つまずかせる人を滅ぼそうとしておられるのではなく、他者との間に生かし合う命の関係を築き上げるようにと促してもおられます。
さらに主は自分自身をつまずかせることについても語っておられます。自分の手や足や目が自分自身をつまずかせるというのは分かりにくいことですが、要するに自分の内面から生じてくるキリストへの背反や罪への誘いに気が付いた時は、それに勝利するための真剣な闘いを挑めということでしょう。肉体の病でしたら、病んでいる部分を切除することによって、健康が回復したり命が保たれたりすることがあります。その場合、切除の痛みに耐えなければなりません。それでは自分自身をキリストから切り離そうとする罪という霊的な病の場合はどうすればよいのでしょうか。それは比喩的に言われている手とか足とか目の実際の切除によってなされるものではなくて、真剣な祈りを伴いつつなされる敵対するものとの血を流すほどの闘いによって、それに打ち勝とうとすることです。そうすることによって人は「命にあずかる」すなわち真の命を得ることや、「神の国に入る」ことができるものとされます。戦わずしてわたしたちは御国の一員としてあり続けることはできないのです。
主は最後に「自分自身の内に塩を持ちなさい」と教えておられます。金属の鉱石が火によって精錬され、純度を高めていくように、わたしたちも試練や霊的な闘いを通して、邪悪なものや不信仰なものを取り除かれて、神の国の一員にふさわしいものとされて行きます。そのよう中で与えられるものが「塩」です。それは神からの賜物です。福音を聴くこと、それに従って生きることによって与えられたその塩味をわたしたちはきょうだいたちの信仰のために、彼らの慰めや励ましのために、さらに教会の形成のために用いることが求められています。そうすることは「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4:6)とのパウロの教訓に通じるものです。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 古賀 洋子
奏楽 | |
招詞 | イザヤ書40章30~31節(旧約 p1125) |
讃美歌 | 10 わがたまたたえよ |
祈祷 | |
聖書 | マルコによる福音書福音書9章42~50節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 75 ものみなこぞりて |
説教 | 「真の命に至る道」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 339 きみなるイエスよ |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 540 みめぐみあふるる |
祝祷 | |
後奏 |
2021.05.23に開催された特別講演会の動画が視聴可能になりました。
ここからお進みください。
種別 | 特別講演会 |
講師 | 公文 和子 先生 |
テーマ | 「輝くいのち」〜ひとりひとりが共に生きるということ〜 |
場所 | 佐賀めぐみ教会 |
日時 | 2020.05.23 13:30〜 |
弟子の一人ヨハネが12弟子以外の人のことについて、主に次のように報告しています。「主の名を使って悪霊を追い出している人がいたのですが、わたしたちに従わないのでやめさせようとしました」(38節参照)。ヨハネは、人が主イエスの名を使って癒しの業をするのであれば、自分たちと同じように主に従って来るべきだと考えたのでしょう。彼は主から「それでよい」とのお言葉がもらえるものと期待していたかもしれません。しかし主のお答えはそれとは違って意外なものでした。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方である」(39)。このお言葉の中には、ヨハネに対する戒めと、主の名を用いている人への配慮が含まれています。
ヨハネに対する戒めとは、彼の内にある偏狭な排他性や不寛容に対するものです。ヨハネは確かに漁師としてのすべてを捨てて主に従う者となりました。それは尊いことです。しかし現実には、12弟子と同じように何もかも捨てて主に従って行くという形をとれない者たちもいるのです。今はそれぞれの場所に留まって、そこで与えられた賜物を用いて主のために仕えている人たちもいます。ゲラサの地で主によって悪霊を追い出していただいた人は、主に従って行くことを申し出ましたが、主は彼に「家に帰って、身内の人に主の憐みを伝えなさい」(マルコ5:19参照)と命じられました。それはこの人に与えられた主に仕える形です。自分たちだけが主のために働いているとの考え違いをしていたヨハネに対して、主は今その特権意識を戒めて、他の形の服従の道もあることを教えておられるのです。
主はそのように12弟子とは異なる形で主のために働いている人のことを、「わたしの味方」と述べておられます。それは彼らが主の働きに対して妨害者とはならず、実質的には主の協力者として働いていることを寛容に受け入れておられるということです。つまり、彼らにも神からの務めの委託があって彼らはそれを果たしている、と主は受け取っておられるということではないでしょうか。神が彼らをも用いておられるということです。それは彼らに対する信頼と言うよりも、彼らを用いておられる神に対する信頼から出てくる言葉です。さらに主は、彼らは今は彼らなりの仕方で神の御業を果たしているが、やがて時が来るならば、彼らは次の段階に進むであろうという期待をも持っておられるに違いありません。無名の弟子たちにこのあと続いて起こるであろう次なる飛躍を待っておられる主の姿を、そこに見ることができます。そのように主は「主の味方」である人が、いつまでも今の形のままであり続けて良いとは考えておられないのです。彼らもやがて主の十字架と復活に対する信仰をもって、主のために身を捧げるものとなってほしいと願っておられます。
今日においてもキリスト教への良き理解者である「主の味方」、協力者はわたしたちの周囲にいます。その人たちによってわたしたちは間接的に支えられていることを感謝をもって覚えるものです。主はそのような人たちが「主の味方」から真の「主の弟子」になることを待っておられるに違いありません。それはわたしたち自身の祈りでもあります。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 十時 やよい
奏楽 | |
招詞 | エレミヤ書17章9~10節 (旧約 p1209) |
讃美歌 | 9 ちからの主よ |
祈祷 | |
聖書 | マルコによる福音書福音書9章38~41節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 80 わが主のみわざは |
説教 | 「だれが主の味方か」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 380 たてよいざたて |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 540 みめぐみあふるる |
祝祷 | |
後奏 |
主イエスがご自身の受難と復活の二回目の予告をなさった後、弟子たちの間で議論されていたことは、誰がいちばん偉いかということでした。なぜ彼らはそのような議論をしたのでしょうか。考えられる一つの理由は、彼らが主の予告を誤解して、まもなく主はエルサレムで王位に着かれる、そのとき誰が主に続く地位に着くだろうかということに関心を抱いていたからということです。主は弟子たちのそうした心をご存じであられました。そのため、十二弟子たちを呼び寄せて主に従うことの意味を改めて教えておられます。それが仕える者として生きることと、子どもを受け入れることについてです。
主は言われます。「いちばん先になりたい者は、…すべての人に仕える者になりなさい」。「仕える」とは、本来奴隷が食卓に仕え、世話をするという意味をもっています。それを突き詰めるならば、他の人の命と生存のために自分の身を差し出すことです。多くの人が他者よりも自分を上に置き、他者に仕えさせる生き方をしようとする中で、逆に他の人の生のために自分を差し出す生き方をせよと主は命じておられます。これは厳しい律法ではありません。むしろ、仕えることの中に主がおられる、その同じ場所にわたしたちを招いておられるということによって、それは福音であり、賜物であると言うべきでしょう。
宗教改革者ルターは次のように言っています。「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも服さない。キリスト者はすべての者に仕える僕(しもべ)であって、誰にでも服する」。キリスト者はイエス・キリストを唯一の主とするゆえに、他の誰にも服さない自由を持っている。それとと共にキリスト者は、主が小さい者に仕えられたがゆえに、誰にでも仕えることができる自由の中に生きる。これがキリスト者のあり方です。
主はさらに仕えることの意味を深めるために、小さな子どもを受け入れることへと話を展開されます。当時、ユダヤの社会においては子どもは価値の低いものと考えられていました。誰がいちばん偉いかと議論している弟子たちには、小さい子どもの存在など眼中になかったことでしょう。そのような弟子たちに対して、小さい子どもを受け入れることは、主を受け入れることに等しいと教えておられます。その場合の「受け入れる」とはどういうことでしょうか。それは何よりもその存在をありのままに認めることです。この小さな存在にも神の愛は向けられ、彼らの救いのためにも主は十字架を担われたということを信じることです。それが「主の名のために」受け入れるということです。
「その(弱い)兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(コリント一、8:11参照)のです。その弱い者の中にわたしたち自身も含まれています。主によってそのように仕えられた貧しいわたしたちが、他の小さな存在をどうして無視することができるでしょうか。パウロは言います、「…キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(ロマ15:7)。そうすることは主を受け入れることであり、ひいては神を受け入れることになると主は言われます。他の人、特に小さな存在と如何に関わるかは、主イエスとの関り、ひいては神との関りをもそのうちに含んだものであるという重要な関連を、わたしたちは教えられます。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 古賀 洋子
奏楽 | |
招詞 | 詩編51編18~19節 (旧約 p885) |
讃美歌 | 7 主のみいつと |
祈祷 | |
聖書 | マルコによる福音書福音書9章30~37節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 73 くすしきかみ |
説教 | 「主イエスを受け入れること」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 352 あめなるよろこび |
聖 餐 式 | |
讃美歌 | 206 主のきよきつくえより |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 540 みめぐみあふるる |
派遣と祝福 | |
後奏 |
主イエスが三人の弟子たちと共に山から下りて他の弟子たちのところに来られた時のことです。弟子たちを大勢の人々が取り囲んで議論していました。それは、父親が汚れた霊にとりつかれた我が子の癒しを求めて弟子たちのところに来たけれども、彼らは癒すことができなかったということを巡っての議論でした。それをお知りになった主は、「なんと信仰のない時代なのか」と言って嘆かれました。主はどのような意味で「信仰のない時代」と言われたのでしょうか。また弟子たちはどうして癒すことができなかったのでしょうか。
主は父親にその子をここに連れてくるように命じられました。激しい症状を表すその子をご覧になって主は心を痛められたに違いありません。主に対して父親はすぐに癒しを求めました。その時の言葉は、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」というものでした。父親はなぜ「おできになるなら」という言葉遣いをしているのでしょうか。それは一見遠慮がちで控えめな姿を現しているようにも聞こえます。それに対して主は厳しい言葉を返されます。「『できれば』と言うのか。信じる者には何でもできる」。主のお言葉から知ることができるのは、父親の姿は謙虚さを表すものではなく、主への絶対の信頼を欠いたものであるということです。「わたしに対してはそのような言葉は不要である」とでも主は言っておられるかのようです。
ここでわたしたちは自分たちのことを考えさせられます。わたしたちも神に対して「もしできますならば」の信仰、いや不信仰を抱えている者です。神の可能性への限界を勝手に設けているのです。そのために、わたしたちの愛する人々の救いに関しても、「もしできれば」という程度の思いに留まっているのではないでしょうか。「神におできにならないことは何もない」との熱い思いで神と向き合うことが信仰においては不可欠であることを思わせられます。それが共に生きる人たちの救いにもつながるのです。
主は汚れた霊にとりつかれた子どもを癒すために、「汚れた霊よ、わたしの命令だ。この子から出て行け」と命じられました。すると直ちに霊はその子から出て行き、この子は癒されました。これを見た弟子たちは、「どうしてわたしたちにはできなかったのでしょうか」と尋ねています。それに対する主の答えはこうでした。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」。主は、信仰の足りなさは祈りの足りなさである、信仰の弱さは祈りの弱さであるということを教えておられます。弟子たちは自分たちの悪霊追放の方法が間違っていたのかもしれないとの思いで主にお尋ねしたのですが、主は信仰の基本的なところにおける弱さを指摘しておられます。信仰は神への全面的な自己委託であり、祈りはその行為です。「信仰のない時代」とは、神に対する真摯な祈りの欠如の時代として見ることができます。
わたしたちも、父親が「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだように、信じる心と信じえない心を抱え持った者たちです。内に信仰と不信仰が共存しているわたしたちです。その中で信仰を自分の生の中心の座に据えるためには、祈り以外にないことを教えられます。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 十時 やよい
前奏 | |
招詞 | 詩編68編20~21節 (旧約 p900) |
讃美歌 | 6 われら主を |
祈祷 | |
聖書 | マルコによる福音書福音書9章14~29節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 182 きませみたまよ |
説教 | 「祈りによらなければ」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 270 しんこうこそたびじを |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 539 あめつちこぞりて |
祝祷 | |
後奏 |