開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 十時 やよい
| 奏楽 | |
| 招詞 | エレミヤ書8章13節 (旧約 p1191) |
| 讃美歌 | 55 きょうはひかりを |
| 祈祷 | |
| 聖書 | マルコによる福音書11章12~14、20-21節 |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 162 あまつみつかいよ |
| 説教 | 「実のないいちじくの木」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 239 さまようひとびと |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 542 よをこぞりて |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 十時 やよい
| 奏楽 | |
| 招詞 | エレミヤ書8章13節 (旧約 p1191) |
| 讃美歌 | 55 きょうはひかりを |
| 祈祷 | |
| 聖書 | マルコによる福音書11章12~14、20-21節 |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 162 あまつみつかいよ |
| 説教 | 「実のないいちじくの木」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 239 さまようひとびと |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 542 よをこぞりて |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
11章1節以下には主イエスのエルサレム入城の様子が描かれていますが、今日のテキスト部分では、特に人々の動きが二つの面から描かれています。一つは弟子たちや人々が、主イエスが乗られるろばの背に、鞍代わりに自分たちの服をかけたことです。そして主がろばに乗って歩かれる道には、服を敷いたり、野原から集めて来た葉のついた枝などを敷いています。これは絨毯の代わりなのでしょう。これらの行為は、ゼカリヤ書9章9節の預言を思い起こし、その預言が成就したことを彼らなりに表現しているものです。こうして人々は主イエスを待望の「メシア」、新しい王として歓迎しています。
さらに人々は、「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように」と讃美の声をあげています。これは、詩編118編25-26節からの引用で、わたしたちの救い主がついにおいでになった、主よ、どうか一日も早く救いを実現してください、との思いで叫ばれている讃美であり、祈りです。
このように主イエスを歓迎している人々とは誰のことでしょうか。十二弟子たちは当然含まれていますが、ほかにガリラヤから主に従ってきた人々、さらにはエルサレムで主を迎える人々などが考えられます。彼らは小さな芝居をしているようですが、そうではなくて旧約聖書の預言の成就を主イエスの到来に見て、精一杯聖書に忠実に主をお迎えしていると見るべきでしょう。
こう考えると、人々は主イエスに対して正しい認識と信仰とを持っているかのように見えます。それがなぜ、数日後には弟子たちは主のもとから逃げ去り、エルサレムの人々は主に対して「十字架につけろ」と叫ぶようになったのでしょうか。それは彼らが預言者たちが示した新しいメシア、新しい王に対して間違った思い込みや先入観を持っていたからということによります。彼らは、新しいメシアは政治的、軍事的にイスラエルを輝かせるものと思い描いていました。勝手なメシア像を作り上げていたのです。しかし数日の間に、主イエスの実体は、そのようなものではないということがはっきりしてきました。そのため人々は裏切られたと思い、主に対する反旗を翻したのです。
このことはわたしたちにとって大きな教訓となります。わたしたちが主を人々に証しするとき、人々の要求に何でも応えてくださるお方であるかのように、主による安価な恵みとか救いを約束することがあってはならないということです。相手に迎合するような形でキリスト像をゆがめないようにしなければなりません。パウロは「神の慈しみと厳しさを考えなさい」(ロマ11:22)と述べています。主の愛や赦しとともに、裁きの厳しさも語らなければなりません。主は裁きつつ赦したもうお方なのです。
ところで、人々の歓迎ムードの中で、主はどう応えられたでしょうか。主は用意されたとおりに入城された後、神殿の様子をご覧になって夕刻にエルサレムを離れられました。その間、主は人々の歓迎ぶりの中に、人々の置かれている状況、即ち救いを必要としている状況を肌で感じられたことでしょう。飼い主のいない羊の群れのような人々がそこにいます。その人々に主の憐みは向けられます。そして「ホサナ、主よ、お救いください」との叫びは、人々の期待する形ではなく、十字架において結晶するのです。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 古賀 洋子
| 奏楽 | |
| 招詞 | ゼカリヤ書9章9~10節 (旧約 p1489) |
| 讃美歌 | 54 よろこびのひよ |
| 祈祷 | |
| 聖書 | 詩編118編25~26節 (旧約 p958) マルコによる福音書11章7~11節 |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 90 ここもかみの |
| 説教 | 「ろばに乗って来られる主」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 130 よろこべや |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 542 よをこぞりて |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
マルコによる福音書11章から終わりまで、主イエスのエルサレムにおける最後の一週間が記述されます。この福音書全体の実に三分の一以上の分量が用いられていることから、この一週間が如何に重要であるかが分かります。
主は今エルサレムに入られます。この都市は城壁に囲まれた都市でしたから、そこに入ることは「入城」として言い表されます。主がその入城のために用いられた方法が特別なものでした。それを二つの面から考えてみましょう。
一つは主がろばに乗って入城されたことです。それは、旧約聖書の預言通りのことを主がなさったためです。ゼカリヤ書に次のように記されています。
「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る」(9:9)。
この預言通り主はイスラエルの王として、また約束のメシア(救い主)として、ろばに乗ってエルサレムに入って行かれます。それはこの預言が、今主イエスによって実現されていることを人々に示す行為でした。そしてエルサレムの人々も、ろばに乗って入城される主イエスを見て、この預言を思い起こし、その成就を確信し、歓迎しています。この時の様子については、次週に7節以下でもう少し詳しく考えます。主がろばを用いられたことの第一の理由は、預言との関係からなされたことでした。
次に預言にも「高ぶることなく」とあるように、主はろばを用いることによってご自身の仕える姿を表しておられます。ろばは、一般的に言って馬ほど見栄えのよいものものではありません。家畜の初子が生まれた時にはそれを神に捧げるのが決まりでしたが、ろばの場合は小羊に代えられました(出エジプト34:20)。価値が低いということなのでしょう。しかしろばは柔和な性格で忍耐強く、重荷を背負って黙々と働きます。華々しい軍馬ではなくて、ろばを用いることによって、主はご自身が人々に仕える者としてのメシアであることを示しておられます。人々は預言の成就に関してはある程度理解できたでしょうが、ろばを用いることの信仰的意味には気が付いていないかもしれません。
こうして主はエルサレムに入られるのですが、このろばをどのようにして調達されたのでしょうか。それは、弟子たちに命じて、ある村からろばを借りてくることによってでした。弟子たちは命令通り出かけてろばを借りることができたのですが、そのとき、これは「主がお入り用なのです」と断って借りています。主が前もって手配しておられたのでしょうが、そのろばを新しい王としての主がエルサレムに入城するために必要なものとして借りることができたのです。主が必要としておられるものが、主のご要望通りに用いられるとは何と幸いなことでしょうか。
主はわたしたちをも、時に応じて呼び出されます。そのときわたしたちが「なぜなのですか」と問うならば、主は言われます。「わたしがあなたを必要としているからだ」と。それに対する応答の道は一つしかありません。それは主が今必要とされているものを差し出すことです。
「主よ、わたしをあなたの平和の器として用いてください」(アッシジのフランチェスコの祈り『平和の器』より)。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 栗林 聖子
| 奏楽 | |
| 招詞 | 詩編34編2~4節 (旧約 p864) |
| 讃美歌 | 82 ひろしともひろし |
| 祈祷 | |
| 聖書 | マルコによる福音書11章1~6節 |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 291 主にまかせよ、ながみを |
| 説教 | 「主がお入り用なのです」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 320 主よ、みもとにちかづかん |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 541 ちち、みこ、みたまの |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
これはエリコの町における主イエスとバルティマイという盲人との出会いの物語です。バルティマイが物乞いのために道端に座っていた時、自分の前を通って行かれるお方が、ナザレのイエスであることを知らされました。すると彼はすぐにこう呼びかけています、「ダビデの子イエスよ」と。「ダビデの子」とは、イスラエルの偉大な王であるダビデの子孫ということですが、これはある特別な意味を持っていました。すなわち、神がこの国に送ると約束されているメシアがその名で呼ばれていたのです。バルティマイは、神から与えられた特別な認識の賜物によって、イエスをメシア、すなわち約束の救い主と信じて呼びかけているのです。これは彼に与えられた信仰告白の言葉です。
さらに彼は、主イエスに「わたしを憐れんでください」とも言っています。つまり自分の見えない目を見えるようにしてくださいとの祈りをささげています。この機会を逃しては二度とこの方にお会いする機会はないと感じてのことなのか、必死に主に向かって祈りの言葉を投げかけています。
それに対して主の周りにいた多くの人々(その中には弟子たちも含まれていたかもしれません)は、彼を制して主に近づけないようにしています。以前、子どもたちを主のもとに連れてきた人たちを弟子たちが叱りつけたように(10:13以下)、この時も人々は同じようなことをしています。主に近づける人とそうでない人とを勝手により分けている主の周辺にいる人々の相変わらずの心がここに表されています。彼らは自分たち自身のことはどのように考えていたのでしょうか。
しかし主は言われます、「あの男を呼んで来なさい」。群衆の騒ぎ立てる声を超えて、主はひとりの人の必死の叫びを聞き取り、その人をご自身のもとに招かれるのです。ちょうど大勢の群衆の中にいてそっと手を伸ばして主の衣の裾に触れたあの出血の止まらない女性の手を見分けられたように(マルコ5:25以下)。呼ばれた彼は躍り上がって主のもとにやって来ます。主がわたしたちの叫びや祈りに耳を傾けてくださることは、こんなにも大きな喜びなのです。主はこの人の願いが何であるかを確認した上で、それを聞き入れてくださいました。「あなたの信仰があなたを救った」と言われるとおり、彼の目は主の憐みを受けて、見えるようになりました。主は、彼の主にすがる一途な思いを彼の「信仰」と言ってくださっています。長血の女性の場合も同じでした。
多くの人にその人固有の叫びがあります。自分の願いと現実との隔たりの中で苦しんでいる人たちが多くいます。それぞれに「叫び」を内に抱えているのです。それを抱えて主のもとに行こうとするとき、いろいろな力が「やめとけ」と言って制します。もしかすると自分が自分自身を制して、「やめなさい」、「意味がない」と言っている場合もあるかもしれません。しかし主はそのような人たちの内なる叫びを聞き取って、「その人をわたしのもとに連れて来なさい」と言ってくださっています。主のもとに来るべきか否かは人が決めることではありません。主ご自身がお決めになります。主は今も「あの人をわたしのもとに連れて来なさい」と呼びかけておられます。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 古賀 洋子
| 奏楽 | |
| 招詞 | イザヤ書29章17~19節 (旧約 p1106) |
| 讃美歌 | 26 こころをかたむけ |
| 祈祷 | |
| 聖書 | マルコによる福音書10章46~52節 |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 87B めぐみのひかりは |
| 説教 | 「見えるようになりたいのです」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 333 主よ、われをば |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 542 よをこぞりて |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
御国が完成した時には王位に着かれるはずの主イエスの右と左の座に自分たちを着かせてほしいと願う弟子ヤコブとヨハネの求めに対して、主は弟子たちが本来求めるべきことは何であるかを教えておられます。その中心にあるのは、「仕える者」として生きよ、ということです。
そのことを語られるにあたって、主はまず異邦人の生き方について触れておられます。異邦人とは、イスラエル民族以外の人々のことで、内容的には真の神を知らない人々ということになるでしょう。彼らは、畏れるものを知らないために、この世の力や財産を多く持つことによって人々の上に立ち、人々を支配しようとします。主の時代の異邦人はそのようでした。主は、弟子たちはそうであってはならないと言われます。
一方、主の弟子たち、また真の神を知らされた者たちの生き方は、内容的には、「皆に仕える者」、「すべての人の僕(しもべ)になること」として言い表されています。そのような生き方が可能となるのは何によってでしょうか。どこにその見本となるものを見出せばよいのでしょうか。それに対して主は、ご自身のことを明らかにされることによって、答えておられます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45)。「人の子」とは、主ご自身のことです。この言葉の中に、主がいかなるお方であられるかが端的に言い表されています。人は罪という悪しき力の捕らわれとなっている、そのような人間を解放するために、神の前にご自身の命を差し出して、その結果、神から罪人の命を買い戻してくださる、という主イエスによる救いのこと、さらには贖い(あがない)のことが語られています。わたしたちは、その主の身代金によって、神のものとして買い戻されました。それゆえ、主に従う者たちも、主に倣って人の命のために自分の身を差し出すのです。それが仕えるということの本質です。
さらに使徒パウロは、主イエスは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6~7)と告白しています。これは人となられた神の子イエスのヘリくだりを述べたものです。その主のへりくだりの姿の中にわたしたちのあるべき姿を見出して、わたしたちも自分のことに固執せずに、他者が真に生きる者となるために、また他者の命が神のもとに連れ帰されるために、自分自身の命と存在を投げ出して用いることが勧められています。そのような生き方こそが「仕える」ということであり、それは主イエスに倣うことによってわたしたちの内に始まるものです。
主は最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われた後に、次のように言われました。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:15)。弟子たちの生き方の基本は、このような主のへりくだりと仕える姿の中にあることが今示されました。彼らは天の主イエスの右と左の座を争うことから解放されて、他の人に向かわなければなりません。それはわたしたちにおいても同様です。
開会 10時15分
司会 牧師 久野 牧
前奏 十時 やよい
| 奏楽 | |
| 招詞 | 詩編51編18~19節 (旧約 p1156) |
| 讃美歌 | 24 ちちのかみよ |
| 祈祷 | |
| 聖書 | マルコによる福音書10章42~45節 |
| 信仰告白 | 使徒信条 |
| 讃美歌 | 85 主のまことは |
| 説教 | 「仕える者として生きる」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
| 祈祷 | |
| 讃美歌 | 391 ナルドのつぼ |
| 聖餐式 | |
| 讃美歌 | 204 すくいのきみなる |
| 献金と感謝祈祷 | |
| 主の祈り | |
| 頌栄 | 542 よをこぞりて |
| 祝祷 | |
| 後奏 |
主イエスは第三回目のご自身の受難と復活の予告をされました(33~34節)。これを聞いた十二弟子の中のヤコブとヨハネの兄弟が、主イエスに願い出をしています。それは、主が栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください、というものです。これはどういうことでしょうか。考えられることは、次のことです。弟子たちは、主の受難と復活の三度目の予告を聞いたとき、主の死が近いことと、同時に、主が栄光の座に着かれるときも近づいてきたと考えました。そうであれば、自分たち兄弟を主に次ぐ地位につけてほしいと願っている、ということです。
彼らは主の十字架の意味を何も分かっていません。自分たちは家も家族も仕事も捨てて主に従ってきたのだから、そのように要求する権利がある、とでも思っているかのようです。ある神学者は、「彼らは主からまるで何も教えられなかった者のようである」と述べていますが、まさしくとんちんかんなことを彼らは願い出ているというほかありません。
主はそれに対して、彼らを厳しくとがめるのではなくて、一つの問いかけをされます。「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われるのです。その意味は、主イエスと共に十字架の死を受け入れる覚悟があるかとの問いです。二人はその内容が良く分からないまま、「はい、できます」と答えています。なんと素直な答えであろうか、いや何と浅薄な応答であろうかと考えさせられます。そのような彼らに主は、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」(39)と述べておられます。それは、彼らは今は何も分かっていませんが、いずれ彼らも信仰のゆえに死ななければならない時が来ると告げておられるのです。その通り、ヤコブは殉教の死を遂げ(使徒12:2)、ヨハネも伝説によれば殉教の死を遂げています。主は彼らの今の思いを超えて、彼らを信仰の高みに導いてくださいます。
この兄弟のことを聞いた他の十人の弟子たちは怒っています。彼らも同じことを考えていたからです。そのような弟子たちに主が教えられたことについては、次週、42節以下でご一緒に御言葉に聞きましょう。
ここから示されることは、神が人間に求めておられることと、人が神に求めることとの間には、とてつもない隔たりがある場合があるということです。それが分かった時、何が起こるでしょうか。先に人間の場合を考えてみますと、あの富める男性が悲しみつつ主の前から去って行ったように(10:22)、神から離れるということです。神を諦めるのです。それでは神はどうでしょうか。神は人を簡単に諦めることはなさいません。主がこの兄弟の地上的な願いを受け止めた上で、最終的に彼らを霊的に高いレベルへと引き上げられたように、わたしたちも神によって時間をかけながら、より高いレベルへと引き上げられるのです。そうでなければ、わたしたちの服従は可能とはなりません。わたしたちは弟子たちのように、主のために殉教の死を遂げることはできなくても、主のために生きることはできます。主のために全身全霊を捧げて仕えるのです。その姿勢に主なる神が応えてくださるでしょう。