「主イエスを受け入れること」

マルコによる福音書9章30~37節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスがご自身の受難と復活の二回目の予告をなさった後、弟子たちの間で議論されていたことは、誰がいちばん偉いかということでした。なぜ彼らはそのような議論をしたのでしょうか。考えられる一つの理由は、彼らが主の予告を誤解して、まもなく主はエルサレムで王位に着かれる、そのとき誰が主に続く地位に着くだろうかということに関心を抱いていたからということです。主は弟子たちのそうした心をご存じであられました。そのため、十二弟子たちを呼び寄せて主に従うことの意味を改めて教えておられます。それが仕える者として生きることと、子どもを受け入れることについてです。

主は言われます。「いちばん先になりたい者は、…すべての人に仕える者になりなさい」。「仕える」とは、本来奴隷が食卓に仕え、世話をするという意味をもっています。それを突き詰めるならば、他の人の命と生存のために自分の身を差し出すことです。多くの人が他者よりも自分を上に置き、他者に仕えさせる生き方をしようとする中で、逆に他の人の生のために自分を差し出す生き方をせよと主は命じておられます。これは厳しい律法ではありません。むしろ、仕えることの中に主がおられる、その同じ場所にわたしたちを招いておられるということによって、それは福音であり、賜物であると言うべきでしょう。

宗教改革者ルターは次のように言っています。「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも服さない。キリスト者はすべての者に仕える僕(しもべ)であって、誰にでも服する」。キリスト者はイエス・キリストを唯一の主とするゆえに、他の誰にも服さない自由を持っている。それとと共にキリスト者は、主が小さい者に仕えられたがゆえに、誰にでも仕えることができる自由の中に生きる。これがキリスト者のあり方です。

主はさらに仕えることの意味を深めるために、小さな子どもを受け入れることへと話を展開されます。当時、ユダヤの社会においては子どもは価値の低いものと考えられていました。誰がいちばん偉いかと議論している弟子たちには、小さい子どもの存在など眼中になかったことでしょう。そのような弟子たちに対して、小さい子どもを受け入れることは、主を受け入れることに等しいと教えておられます。その場合の「受け入れる」とはどういうことでしょうか。それは何よりもその存在をありのままに認めることです。この小さな存在にも神の愛は向けられ、彼らの救いのためにも主は十字架を担われたということを信じることです。それが「主の名のために」受け入れるということです。

「その(弱い)兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(コリント一、8:11参照)のです。その弱い者の中にわたしたち自身も含まれています。主によってそのように仕えられた貧しいわたしたちが、他の小さな存在をどうして無視することができるでしょうか。パウロは言います、「…キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(ロマ15:7)。そうすることは主を受け入れることであり、ひいては神を受け入れることになると主は言われます。他の人、特に小さな存在と如何に関わるかは、主イエスとの関り、ひいては神との関りをもそのうちに含んだものであるという重要な関連を、わたしたちは教えられます。