「神が合わせられたもの」

マルコによる福音書10章1~12節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日、家庭や親子関係や夫婦関係の崩壊が、社会の崩壊の最大の原因であると指摘されます。それほどに深刻な状況です。このことについての聖書の教えの一つが、今日の主イエスとファリサイ派の人々との問答にあります。

あるときファリサイ派の人々が主に次のように尋ねました。「夫が妻と離縁することは、律法に適っているでしょうか」(2)。これは苦悩の中からの問いではなくて、主が旧約聖書にどれほど通じているかを試そうとするものでした。しかし主はそれを軽くいなすことはなさらずに、正面から受け止めて「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返しておられます。つまり、律法にどう書かれているかを尋ねておられるのです。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えています。彼らはこの掟によって、夫は妻に恥ずべきことがあればいつでも離縁することができる、離縁は合法的である、夫の権利であるとさえ考えていたのでしょう。

しかし主はこのモーセの掟の中に、人間の弱さに対する神の憐みを見ておられます。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(5)。これは、崩れた結婚生活を続けることによって、互いがかえって傷つけあい、神への信仰や、礼拝を捧げることに支障が生じてくるようであれば、互いが神によって造られた人格を回復し、自身を維持するために別れることはあり得る、と主は解釈しておられます。人間の弱さに対する神の厳しさの緩和あるいは譲歩をこの掟の中に読み取っておられるのです。離婚の勧めではありません。神学者バルトは「主のこの教えと解釈によって、どれほど多くの傷ついた夫と妻が癒されたことであろうか」、また「離婚して再出発することが、神への服従として良い道であることが当事者において、また信仰の良心の下で認められた時、教会はこれを承認すべきである」と述べています。

しかし主の教えの中心は離縁にあるのではありません。主は続いて、神の創造の業に立ち帰って、そもそも男と女とはどういう関係にあるかを思い起こさせておられます。その内容は、神はご自分にかたどって人を男と女に創造された、その二人は神のもとで一体となることによってさらに神に近づくことができる、そのようにして神が結び合わされたものを人は離してはならない、というものです。神が人をご自身にかたどって造られたとは、人は神との対話の中で生きるものとされたということです。そして、男と女とが夫婦として結び合わされることによって、この神との対話はより豊かなものになる、というのが神の創造の目的です。その結びつきによって新たな人格が造り出されることになります。それゆえ、神は男と女とを創造されただけではなく、その結びつきである結婚も創造されたということになります。その結びつきは偶然のものではなくて、創造主なる神の意志の下にあるのです。それゆえ「実にこのことは信じられるべきことである」とさえ言われます。

わたしたちは常に神の創造の目的に従って人間というものを考え、また結婚について思いを巡らすべきです。人間の勝手な判断が人と人との関係のあり方を決定してはならないのです。それは社会の混乱の原因となります。今日の教会の務めの一つは、人々が神の創造の目的に従って人間を考え、家庭を考えることを回復するために仕えることです。