「わたしだ。恐れることはない」

マルコによる福音書6章45~56節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは本当にガリラヤ湖の水の上を歩かれたのでしょうか。そうした素朴な疑問を抱かせられる出来事が本日のテキストに記されています。わたしたちは奇跡が「しるし」と呼ばれることを踏また上で、主による奇跡がどのようになされたかということよりも、それは何を指し示し、教えようとしているのかに思いを向けながら、この出来事から教えられたいと願います。

五千人以上の人々にパンと魚を分け与えられた後、主は弟子たちに強いて向こう岸に渡ってしばらく休むことを指示されました。それは宣教活動や主による給食の奇跡などを経験した弟子たちに、これまでのことを振り返り、静かに祈る時を持たせることが主のご意図であったに違いありません。弟子たちは興奮状態の中で人々と共に主のなさったことについてもっと語り合いたいという思いもあったかもしれません。しかし主はそのような弟子たちを「強いて」人里離れた所に送りだされるのです。信仰にはある種の強制や制約が存在します。人間の意志よりも神の御意志によって動かなければならないという強制です。そうすることによってこそ、信仰者と教会は御心に叶った歩みをすることができるのです。「強いられた恩寵」という言葉を思い出します。

一方主ご自身は、一人で祈るために山に登られました。主にとっても休息と祈りの時が必要だったのです。その主の目に弟子たちの舟が逆風の中で漕ぎ悩んでいる様子が捉えられました。弟子たちは、沖にまで出た所で激しい向かい風のために前に進むことができなくなってしまいました。弟子たちには、こんな目に合うのだったら主のご命令に従わない方がよかった、という思いが生じていたかもしれません。彼らはこのような時にこそ、数々の力ある業をなさった主を思い出すべきだったのですが、それはできませんでした。むしろ主に対する不平不満の方が彼らの心を満たしていたことでしょう。

しかし、主は彼らの様子をご覧になっておられます。そして主は湖の上を歩いて弟子たちを助けるために舟に近づかれました。けれども弟子たちは薄暗い中で舟に近づいてくる人間のような姿を見た時に、幽霊だと思って恐怖におののきました。それはやむをえないことかもしれません。しかし聖書はそのときの弟子たちのことを次のように記しています。「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたから」(52)。これはどういう意味でしょうか。心が鈍いとは、これまでの主の言動から主ご自身を十分に理解することの出来なかった弟子たちの頑なな心、霊的鈍感さを表す言葉です。この言葉の背後に、弟子たちはもうとっくに、主は困難な時にこそ助けてくださるお方であることを確信してもよいはずなのだ、しかし彼らにはそれができていない、ということが暗示されています。弟子たちのこれまでの体験と主との交わりが、まだ彼らの信仰の力になっていなかったことを示すこの出来事を通して、マルコはわたしたちにも「あなたの信仰はどうなのか」と問いを投げかけています。

主は言われます、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。主は従う者たちをいつも見ていてくださいます。そして困難な状況にあるわたしたちに思いがけない方法で近づいて来て助けてくださるのです。

「パン五つと魚二匹から」

マルコによる福音書6章30~44節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは宣教に派遣した弟子たちの報告を受けられた後、弟子たちをしばらくの間、人里離れた所に送り出そうとしておられます。彼らに祈りの時を持たせようとしておられるのです。しかし多くの群衆がついてきて、主イエスと弟子たちから離れようとしません。そのような群衆を主は「深く憐れまれて」、さらに神の国についての話をしてくださいました。そうこうするうちに日が暮れ始めました。弟子たちは夕食の世話などのことが気になって、主に「群衆を解散させてください」と言っています。弟子たちはお世話をしたくないのでしょう。それに対して主は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。弟子たちの務めを指示しておられます。

しかし、ここは人里離れた所であり既に夕刻である、群衆が何千人もいる、自分たちには十分なお金の持ち合わせもない、そのようにさまざまに思いめぐらして、弟子たちは主の命令は無理だと考えました。普通に考えれば彼らは間違ってはいないでしょう。どんなに見積もっても無理だと結論づけるほかない状況です。しかし、彼らの計算には大事な要素(ファクター)が欠落していました。それは、<主イエスの存在>という要素です。弟子たちは自分たちにとっての不可能性を導き出していますが、そうする前にしなければならないことがありました。それは、そこに主がおられるという事実を認識すること、その主に「どうしたら良いでしょうか」と問い、助けを乞うことです。

主は人々が持っているものがパン五つと魚二匹であることを確認されました。弟子たちにとってはこれだけでは何の役にも立たないという少なさでした。しかし主はパンを取って神に祈りをささげ、それを裂いて人々に分け与えられました。魚も同様にされました。その結果、すべての人が満腹し、さらに食べ物の残りを集めると12の籠いっぱいになったのです。そこにいた人々は、男の数だけでも五千人ですから、女の人や子どもたちもいたとすれば、さらにその数は膨らみます。主は彼らの飢えを癒してくださいました。「人はパンだけで生きるものではない」と言われた主は、また「日毎の糧を与えてください」と祈ることも教えられたお方でした。

弟子たちにとっては「パンは五つしかない、魚は二匹しかない」としか思えない状況が、主にとっては「パンが五つもある、魚が二匹もある」という見方に変わります。その少なさの中に大きな可能性が秘められていることを主は弟子たちと人々に教えるために、それらを用いて人々の満腹を造り出してくださいました。わたしたちにとって「~しかない」と思えるものであっても、主にとっては「~もある」と言われるものとなります。人間にとって何の役にも立たないと思えるものが、主にとっては大いなる可能性を秘めたものとなります。教会も信仰者もそういう存在として、それぞれのところに置かれています。

ここでパンを人々に与えられた主が、わたしたちの霊の飢えと渇きのために差し出してくださる究極のパンは、主イエス・キリストご自身です。主こそ真の命のパンです。群衆の前で裂かれたパンと魚は、やがて十字架の上で裂かれる主ご自身の体を指し示しています。

「洗礼者ヨハネの死」

マルコによる福音書6章14~29節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

福音は、虐げられている人々や貧しい人々に対しては、「あなたも神の前に大切な存在である」という慰めをもたらします。一方、偽りの権威を盾に横暴にふるまう者に対しては、真の唯一の主であられイエス・キリストを指し示すことによって、彼らに悔い改めとへりくだりを求めるとともに、人々には彼らは恐れるに足りない者であることを証しします。福音は、それぞれの状況の中にある人々にふさわしくその力を発揮いたします。

今日のテキストには、ガリラヤの領主ヘロデ(アンティパス)が洗礼者ヨハネを殺害するに至った経緯が記されています。彼はヘロデ大王の息子の一人で、ガリラヤ地方の王として君臨していました。ところが彼は自分の妻を追い出して、異母兄弟フィリポの妻ヘロディアを妻として招き入れました。それに対してヨハネは、「自分の兄弟の妻をめとることは、律法で許されていない」と厳しく非難しました。ヨハネは旧約の律法に基づいて、王の過ちを指摘したのです。そのことに怒りを覚えたヘロデは、ヨハネを捕らえて牢に入れましたし、妻ヘロディアはいつかヨハネを殺そうと狙っていました。しかしそれができないまま時が過ぎました。そしてついに、ヘロデは自分の誕生日の祝いの席で、ヘロディアの娘との「なんでも欲しいものを言え、叶えて上げる」との約束に縛られて、ヘロディアと娘の要求に応じてヨハネの首をはねてしまったのです。なんとも凄惨なことがなされました。ヨハネはヘロデに殺されたのです。

その後、主イエス・キリストの評判がガリラヤ地方に広がりました。そして人々は主イエスについて、「殺された洗礼者ヨハネが生き返ったのだ」とか、「旧約聖書に預言されている偉大な預言者が現れた」と言い始めました。そのことがヘロデの耳に入って、彼は今おびえています。

わたしたちがここで注目したいのは、ヨハネはどうして王を告発するような勇気ある行動をすることができたのかということです。王の過ちについて誰も告発したり指摘したりする人がいない中で、ヨハネ一人が「ヘロデの行為は、神の御心に反している」と批判しました。彼のその勇気はどこから出て来たのでしょうか。それは一言で言えば、彼が人を恐れるのではなく、神を畏れる者であったということです。それは、主イエス・キリストを知ることによって与えられた賜物でした。ヨハネは、主イエスの十字架や、死からのよみがえりについては知りません。彼はそれを知らないまま、早くに殺されてしまったからです。しかし、主の教えの本質はしっかりと捉えていました。主は言われました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。ヨハネはその教えのままに生き、そして死んでいったのです。

イエス・キリストの父なる神こそ「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方」です。この神がわたしたちを永遠の滅びから救い出すために、御子を送ってくださいました。この主イエスと結びつくとき、わたしたちは死の恐怖から解放された生を送ることができます。主は言われました、「わたしは平安をあなたがたに残して行く」(ヨハネ14:27参照)と。

「弟子たちの宣教への派遣」

マルコによる福音書6章6後半~13節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスはこれまで弟子たちをそばにおいて御言葉を語ることや祈ることの訓練をしてこられました。そしていよいよ時が来たと主が思われたとき、12人の弟子たちを二人一組にして宣教へと派遣されます。そのとき主が弟子たちに授けられた権能は、一つは人々を悔い改めに導く御言葉を語ること、そしてもう一つは汚れた霊に取りつかれて病の中にある人を癒すことでした。これは主ご自身がなさった働きと同じものです。ということは、弟子たちの働きは主の業の継続であることが分かります。弟子たち自身には語るべき言葉も病める人を癒す力もありません。彼らはそれを主から受け取るのです。

弟子たちは宣教に遣わされるにあたって、携えていくべきものとそうする必要のないものとの指示を主から受けました。携えるべきものは杖1本、履物をはき、下着も1枚だけが許可されました。一方、携える必要のないものとして、パン(食料)、袋(パンや衣類を入れるもの)、お金、下着は2枚以上はだめと言うものでした。宣教に出かけるときは身軽であれ、旅支度や旅先での生活に心を用い過ぎるなという忠告が込められていますし、また、必要なものはその時々に与えられるという神への信頼を促しておられます。

弟子たちは主による派遣の言葉から、彼らが携えていくべきものは何よりも神の言葉であるというメッセージを聞き取らなければなりません。神の言葉を携えることを怠って、その他の日常生活のことに心を奪われてはならないのです。弟子たち自身は土の器です。その器に盛るべきものは生活必需品ではなく、尊い神の言葉です。神の言葉が貧しくあってはならないのです。
主はさらに宣教先でのことについても語っておられます。その一つは、弟子たちを迎え入れる家が見つかったら、その地の宣教活動の終わりまでそこにとどまり続けよ、もっと良い条件の住まいを捜すことはするな、と言うものです。これも弟子たちを御言葉の宣教にのみ集中させるための忠告です。

さらにもし御言葉を受け入れず、弟子たちを迎え入れない人々がいたら、そこを離れるとき、足の裏の埃を払い落しなさい、ということも命じられました。これは分かりづらいかもしれません。この行為によって弟子たちは、そうした拒否反応を示す人々のことを神に委ねます、ということを言い表すことになります。こうして弟子たちの最初の宣教活動が始められ、実りが与えられました。

最後に今日の教会について考えてみましょう。弟子たちが主のもとから派遣されたように、教会もまた主によって各地に派遣された信仰者たちの集団です。主から派遣された教会は、主が弟子たちに託されたことと同じことを行うのです。神の御言葉を語って人々を悔い改めと救いに導くこと、癒しを必要としている人々のために、心を込めて祈り仕えること、そのようにして使命を果たしていきます。教会そのものは、貧しくもろい土の器に過ぎません。しかし神ご自身が、真の命に至る尊い宝をその器に盛ってくださいます。そして務めを果たすための力をも与えてくださいます。そのように宣教のためにすべてを整えてくださる教会のかしらである主に対する信頼を固く持って、福音宣教のために真剣に闘うことが、地上の教会のありようです。

「故郷で受け入れられない主イエス」

マルコによる福音書6章1~6節前半

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは弟子たちと共に各地をを巡り歩かれた後に、青少年期を過ごされた故郷ナザレに帰られました。それは単なる里帰りではなく、福音宣教のためでした。初めてイエスの教えを聞いたナザレの人たちの反応がここに記されています。その反応は、「この人は、このような教えをどこから得たのだろうか。この人の行う奇跡はいったい何か」というものでした。かつて同じ土地で生活し、その家族構成もよく承知しているイエスに、人々は自分たちとの同質性を期待していたのでしょうが、その教えやなさる業は、彼らの想像を大きく超えたものでした。そこに彼らの戸惑いや驚きが生じています。

彼らはその驚きの原因をさらに深めるべきでした。「この教えはどこから与えられたのか」、「このような業はいったい何に基づくものなのか」と、彼らの驚きの原因や由来や根拠を探求すべきでした。それによってこの人々は、イエスの背後におられる父なる神に出会うことができたでしょうし、また待望の救い主としてイエスに出会うことができたはずです。しかし彼らはそうはしませんでした。せっかくイエスの中にある特別なものに気づき、これはいったいどこからかとの大切な問いを抱きながら、その問いを中途半端に処理してしまったのです。彼らはイエスを特別な存在として見ることを拒んだのです。

彼らのそのような姿勢をある人は、「それはイエスの郷里の人々の自己愛が、彼らの目を真理に対して閉ざさせたのだ」と述べています。新しい生き方を求めるよりも、自分たちのこれまでの考えや生き方や習慣を重んじて、それを維持しようとする心が彼らを動かしているのです。そのためにイエスに対して拒絶反応が示されることになります。聖書では「人々はイエスにつまずいた」と表現されています。自分たちとの異質性が彼らにとっては大きな妨げとなって、主イエスの中に入り込むことができないでいるのです。

主イエスはそのような人々の姿を見て、おそらく当時のことわざの一つである次の言葉を語られました。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(4)。過去の古い人間関係や価値観によって生きている人々にとって、新しい生き方や価値観は、その中にどれほど尊いものが含まれていたとしても、容易には受け入れられないものであることが分かります。

旧約時代の預言者エレミヤも人々から激しくあざけられ、退けられました。しかし、それでも彼の内に働く神の力によって語り続けました。主イエスは故郷で少ししか語ることができず、またわずかしか癒しを行うことができず、人々の不信仰に驚かれつつナザレを離れて行かれました。しかし、人々の拒絶は、新しい宣教への派遣の動機となるのです。

今の時代も、主がご覧になれば「その不信仰に驚かれた」と言われるような状況かもしれません。主イエスに関心を持つ人はいても、多くの人はその域を出ないのです。真剣に問うものが少ないのです。しかし、小さな関心から信仰の歩みが始まり得ることを思うとき、わたしたちは御言葉の伝達の働きを決してやめるわけにはいきません。御言葉の伝達の業は決して無駄に終わってしまうことはない、との確信がわたしたちにはあるのです。

「主イエスに触れるとき」

マルコによる福音書5章25~34節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ここに記されている出来事は、主イエスが会堂長ヤイロの家に向かう途中で起こったことです。ここには12年間出血の止まらない病に苦しめられていた一人の女性が登場します。彼女は「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たして何の役にも立たず、ますます悪くなるだけ」でした。さらに彼女にとっての苦しみは、旧約聖書に、出血を続ける女性に関する規定があり、その人は不浄とみなされて、さまざまなことが禁じられていたことでした。肉体的に弱り、経済的に困窮し、宗教的・社会的に隔離された状態、それが彼女が置かれている絶望と孤独の状況でした。わたしたちはこのことをまず把握しておかなければなりません。

そういう中でも彼女の心の内には「どうしても治りたい」という強い思いが燃え続けていました。それが海の波が寄せては返すように彼女の中でうごめいています。その喘ぎの中で、彼女は主イエスの存在を知りました。そして治癒のために残されている道はこの方によるほかないという思いにさせられました。それで思い切って主のもとに行こうとするのですが、律法の規定が彼女を妨げます。群衆の中に出て行ってはならない、他の人と接触してはならない等の禁止条項が彼女の行動を制限します。しかし抑えがたい願いに押し出されて、彼女は主イエスを取り囲む群衆の中に紛れ込みました。それから先どうしたら良いのでしょうか。彼女は窮余の一策として主の後ろからそっとその服に触れるのです。「この服に触れれば癒していただける」と思ったからです。

そのとき二つのことが起こりました。一つは、彼女が癒されたことです。もう一つは、主がご自身の内から力が出て行ったことに気づかれたことです。これらのことに関して、それぞれの体の内に何が起こったかを、わたしたちの知識や能力では説明することはできません。聖書に記されていることをそのまま信ずるほかありません。

主はご自分の服に触れた者を捜されます。主は、混雑の中で群衆がたまたま主の服に触れることと、何かの願いや祈りを込めて触れることとを識別することがお出来になるのです。癒された女性は隠し通すことはできないと思い、とがめられることを覚悟して、震えながら主の前に名乗り出てひれ伏します。しかし主は彼女をとがめたり叱責したりはなさいませんでした。かえって次のように語りかけておられます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(34)。主は彼女の内に<信仰>をご覧になりました。何が信仰なのでしょうか。ある人に信仰があるかないかを判断するのは、わたしたち人間ではなく、主ご自身です。主は、すべてを失った上で失敗すると完全に存在を失ってしまうかもしれない状況の中で、主に頼り主の服に触れる行為に出たこの女性の主に対する一途な信頼を、<信仰>とみてくださっています。

出血の止まらない女性のかすかな指先の動きからさえもその人の苦悩と救いへの祈りを受け止められた主は、わたしたちの言葉にならない祈りにも応えてくださいます。わたしたちが自分自身を主に投げ出す時、主もまたご自身の全力をわたしたちのために注ぎ出してくださるのです。

「少女よ、起きなさい」

マルコによる福音書5章21~24、35~43節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

「わたしの娘が死にそうです」、これは聖書におけるある父親の叫びです。これに似た訴えや叫びは今日でも聞かれます。あらゆるところで命が危機にさらされています。その叫びがしばしば空しく消えてしまうのは、それが、その叫びを正しく受け止めてくださる方に向けられていないからかもしれません聖書においては、その叫びが主イエスに向けられることによって、娘の命が救われた物語が記されています。その出来事に耳を傾けてみましょう。

ユダヤ教の集会所(会堂)において責任を持っている会堂長のヤイロという人物が、死にそうな娘のために今、主イエスのもとにやってきて、この訴えをしています。このことはヤイロにとってはある種の冒険でした。なぜなら、そのころ既にユダヤ人たちの間にイエスに対する殺意を抱く者たちが現れていたからです(3:6参照)。そういう中でユダヤ人の指導者が主の前にひれ伏すことは、人々の反感を買って、彼自身の身に危険を招くことになるかもしれないからです。しかしヤイロにおいてはその恐れよりも、娘に対する愛の方が勝っていました。その愛が彼を主のもとに走らせているのです。

主は、ヤイロの訴えを聞いてヤイロの家に向かわれます。「よし、行こう」とすぐに動き出さる主のお姿にわたしたちは平安と希望を抱かせられます。しかしその道行きの途中で、中断を余儀なくさせられることが起こりました。それは長い間出血の止まらない女性が主に癒しを求めたことです。主はこの女性にも丁寧に対応されるのですが、気になるのはヤイロの気持ちです。「早く家に案内したい」という焦る気持ちが、主に対する信頼を薄くしてしまわないだろうかと考えさせられます。わたしたちもしばしば、主のわたしたちへの関わり方がのろい、遅いと感じることがあるかもしれません。わたしたちは身勝手に主に対して、自分の方だけを見ていてほしいと願うのです。

さらにヤイロにとって次の試練が襲います。それはヤイロの家の人たちがやってきて、「娘さんは亡くなりました。主イエスに来ていただくには及びません」と告げたからです。死んだ者はもはやどうすることもできないという考えが家の人たちにあることが分かります。ヤイロはどうしたでしょうか。彼は岐路に立たされています。しかし主はヤイロの判断を待つことなく、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言って、ヤイロの家に向かって行かれます。少女の死の知らせは、主にとっては何の妨げにもならないのです。

ヤイロの家に着くと人々は少女の死を悼んで泣き騒いでいました。しかし主は構うことなく娘のもとに行き、「タリタ、クム」と言われました。それはアラム語で、「少女よ、起きなさい」という意味です。あたかも眠っている子を起こすかのように声をかけておられます。その言葉によって少女は起き上がりました。生き返ったのです。主なる神の力が御子イエスを通して驚くべき事態を生じさせています。これは、やがて起こる主イエスの死からの復活の予兆ですし、また終わりの時のわたしたちの「からだのよみがえり」の約束のしるしです。主に結びついて死んだ者に、主は終わりの時に「起きなさい」と声をかけて、死から命に移してくださるでしょう。

「悪霊からの解放」

マルコによる福音書5章11~20節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

墓場を住まいとしていた男の人は、今主イエスと出会っています。主が彼の名を聞かれたことは、彼との深い関係の始まりです。ただ、この男の人の口から発せられる言葉は、わたしたちにとっては分かりにくいものがあります。それは、彼自身が言っているのか、それとも彼に取りついた汚れた霊どもが言っているのか、その区別ができないからです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」というのは彼自身の言葉でしょう。一方、自分たち(複数)をこの地方から追い出さないように願っているのは、彼の中にいる汚れた霊たちです。わたしたちは、彼自身と彼を狂わせている汚れた霊たちとが、区別されないほどに彼自身の中で一体化している険しい現実を見せつけられます。

次に難しく思われるのは、汚れた霊どもが彼の中から出て行って、そこにいた二千頭の豚に乗り移った現象です。何が起こったのでしょうか。ただ一つはっきりしていることは、この男の人が自分の中に住みついている霊が自分から出て行ったことを確信できるためには、それを証拠立てる目に見えるしるしが必要だったということです。そのしるしとして、乗り移った霊によって豚の大群が湖になだれ込むという特別な事象を主は起こされたのです。ここで別の視点から問題にされるのは、二千頭の豚の死です。それがひとりの人の癒しに必要だったとしても、豚の所有者の立場から言えば、貴重な財産が失われたことであり、大きな損失です。そのことに関しては、聖書は何も述べていません。今日的な価値観に立って主を責めることよりも、ひとりの失われた人が癒され、社会へと回復させれられたことをわたしたちは喜ぶべきでしょう。

さて、主によって癒され、本来の姿に戻ったこの人は、主がこの地を離れようとされるとき、主に同行することを願い出ました。それは、自分を墓へ追いやったこの地の人々と共に住むことを忌み嫌ったからというよりも、主イエスと共に新しい生き方をしたいと願ったからではないでしょうか。主に従い、神の国のために仕えたいと彼は願っているのです。しかし主はそれを押しとどめて、この地に残って、自分の身内から始めてこの地の人々に主がしてくださった大きな憐みの業を宣べ伝えるように命じられました。郷里の人々に対して、彼は神の国の宣教の務めを与えられて、派遣されようとしています。彼が宣べ伝えることによって、郷里の人々に一時的な混乱が生じることがあるかも知れません。しかし、必ずその混乱を超えて平安と救いとがこの地にもたらされることを主は確信しておられます。彼は主の命令に従いました。

最後に現地の人々に目を向けてみましょう。外からやってきたイエスによって、さまざまな思いもよらないことを見せつけられた人々は、主にこの地から出て行くことを求めました。侵入者によってこれ以上自分たちの生活を混乱させられたくないという思いからです。彼らは男の身に起こった事柄の中に神的なものを見ようとするよりも、自分たちの生活の安泰を選んだのです。「現状維持が安全」という生き方からは新しいものは生まれてきません。自分たちに構わないでほしいと願う人々に、主が食い込んでくださることを願って、わたしたちも主の証しをいよいよ強めなければなりません。

「墓場を住まいとする人」

マルコによる福音書5章1~10節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

わたしたち人間にとって屈辱を覚えたり、耐えられない思いにさせられることは何でしょうか。人によって異なるかも知れませんが、おおむね共通のこととして、人間としての尊厳が奪われること、また自分の存在が無視されるということがあるのではないでしょうか。今日でも、ある人が他者の存在を傷つけることは人間疎外・人格否定という形で、現実にしばしば起こっています。

そのように人間としての尊厳が傷つけられた時、人はどのような反応を示すでしょうか。その一つは外に向かう反応で、自分を守るための手段として暴力を用い、自分の存在を荒々しく主張するということがあります。今日登場する男は名前を聞かれたとき、ローマの軍隊を意味する「レギオン」という名で自分を言い表しているのも、その一つの表れです。他方、内面に向かう反応もあり、その場合は悔しさや悲しさや痛みが激しく自分を責めさいなみ、心と体の変調をきたすという痛ましい状態になってしまいます。その人は異常な精神状態、いわゆる「狂った」と人から見られる状態に陥るのです。

今日主が出会われた男の人は異邦のゲラサ人であり、「汚れた霊に取りつかれている」ということで説明されるような、自分の力では制御できない異常な精神状態に置かれています。そのため人々によって墓場に追いやられました。その惨めさの中で、彼は自分を縛る鎖や足かせを破壊するほどの力を表していました。しかし、それによって他者を傷つけることはしませんでした。自分自身を傷つけ、石で打ち叩き、大声をあげて日々を過ごしていました。人から傷つけられたくないという思いが、自傷行為を行わせているのです。

そこに主が現れました。ガリラヤ湖のほとりで、先に「向こう岸に渡ろう」(4:35)と言われた向こう岸とは、異邦人のゲラサ人の地でした。墓場を住まいとしているこの人は、主イエスに出会ったとき「いと高き神の子、かまわないでくれ」と叫んでいます。精神の狂いの中にあっても、彼には聖なるもの・神なるものを見分ける力が備わっていたのかもしれません。さらに彼の「どうかわたしの邪魔をしないでほしい。ほっといてくれ」との叫びの背後に、これまで彼に関わった多くの人が彼を苦しめた過去が隠されているように思います。彼は他者に干渉されたくないのです。しかしそれは裏を返せば、真実に自分を受け止めてくれる人を求めている切なる叫びなのかもしれません。

主は彼の叫びにも拘らず彼に近づき、名前を尋ねられます。主は、この人は汚れた霊に取りつかれているという判断をなさって、次のように命じられました、「汚れた霊、この人から出て行け」と。その応答として「自分たちをここから追い出さないで欲しい」という言葉が記されています。これは彼の中に取りついている汚れた霊たちの叫びですが、実際は、彼自身の声として発せられたに違いありません。彼と、彼に取りついている汚れた霊たちは区別できないほどに一体化していることが分かります。主イエスは「かまわないでほしい」とのこの人の叫びに対して、「わたしはあなたに関わりたいのだ」と言って、彼の癒しに取り掛かられます。そのようにして主との出会いが彼に起こり、彼は癒されるのです。今もその主は働いておられます。

「なぜ怖がるのか」

マルコによる福音書4章35~41節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは数多くの奇跡をなさいましたが、今日のものは自然界に対して主が特別な力を表された出来事です。主は多くの群衆に神の国についての話をなさった後、ガリラヤ湖の向こう側のゲラサ地方に向かうために弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と声をかけられました。そのようにして主と弟子たちの舟は漕ぎだされたのですが、途中で激しい突風と波のために大きな危機に遭遇しました。弟子たちは必死になって舟を沈没から守るために働きました。しかしその状況は「おぼれ死ぬ」とさえ感じるほどでした。

その時弟子たちは、主イエスが船尾の方で眠っておられるのに気が付きました。弟子たちは怒りを抑えながら、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と声をかけ、主を起こしています。主は目を覚まされて、弟子たちに対してでなく波風に向かって「黙れ、静まれ」と叱られました。それによって「風はやみ、すっかり凪になった」のです。主は自然の力を制されました。そして弟子たちに対しては「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけておられます。これがガリラヤ湖の嵐の舟の中で起こった出来事です。

主は弟子たちの何を問題にされているのでしょうか。「まだ信じないのか」によって知ることができるのは、主は弟子たちが既に主に対して強い信頼をいだいていることを期待しておられたということです。寝食を共にし、神の国についての教えを繰り返し聞かされ、主の奇跡を通しての特別な力も体験してきた弟子たちでした。主はそうした弟子たちの内に主への揺るがない信頼が築き上げられている、と考えておられたに違いありません。しかし嵐の中での弟子たちの心は、主が期待しておられるところにまでは達していませんでした。

嵐の湖の中で漂う舟は古来、教会を象徴するものとして受け止められてきました。舟には主がおられる、しかしその舟も嵐にあうことがある、それは教会も同じです。その中で弟子たちは主への信頼を見失って自分たちの力ではどうしようもないところにまで追い込まれている、地上の教会も同じです。その時主ご自身が立ち上がって舟のために力を発揮してくださり、舟と弟子たちを危機から免れさせてくださいました。地上の教会も同じです。教会を危機から守ってくださるのは、いつも主です。

さらにこのことは、信仰者個人のことにも当てはまります。主を信じる道を歩みながら、さまざまな嵐にあうわたしたちです。慌てふためき、必死で自分の知恵と力でそれに対抗しようとします。しかしついに力尽きたところで主を思い出し助けを求めると、主はわたしたちを危機から助け出してくださいました。波に向かっての「ここまでは来てもよいが越えてはならない」(ヨブ記38:11)との言葉のように、この世の荒波を制してくださるのです。弟子たちと共に漕ぎだされた主が弟子たちを嵐から守られたように、この世に生きる信仰者を集めて、自らかしらとなって教会を結集された主は、「波にもまれてもなお沈まない」ものとして教会を守り、信仰者一人ひとりの歩みを支えてくださいます。だから「怖がらなくてよい」のです。