「罪の世に勝利する信仰」

 (棕梠の主日礼拝)

ヨハネの手紙一、5章1-5節

教師 久野 牧

今日は主イエスが十字架の苦しみにあわれ、死へと追いやられたことを覚える受難週の初めの日、棕梠の主日です。今日取り上げるヨハネの手紙一、5章1-5節には「悪の世に打ち勝つ信仰」との小見出しがあります。「世に打ち勝つ」とはいかなる意味でしょうか。それについて御言葉に耳を傾けましょう。主の十字架の苦しみとわたしたちの信仰や救いとの関係について、明らかにされるに違いありません。

ここに記されていることは第一に、神から生まれた人は世に打ち勝つということです(4節前半)。5節ではそのことを逆の面から語っています。「だれが世に打ち勝つか」との問いを出して、その答えは「それはイエスが神の子であると信じる者である」です。その二つのことから言えることは、「神から生まれた者」とは、イエスが神の子でありメシアであると信じる者ということです。ここで強調されていることは、イエスを神の子と信じ、神からの唯一のメシア(救い主)として信じる者は、神から生まれた者と言われるほどに、神に属する者とされている、ということです。それは、その人には信仰によって、神との間に決して切れることのない結びつきが与えられている、ということを意味します。さらにその人には、悪の世に打ち勝つ勝利が神から約束されている、勝利が与えられている、とまで述べられています。ここで言う勝利とか、世に勝つということは何を意味しているのでしょうか。

まず「世」とは何か、それは神の愛の対象としての人間、神が救いを与えようとしておられる相手としての人間のことです。しかしその世はヨハネによる福音書15章18節によれば、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」と記されているように、神と御子キリストに敵対するという一面を持っています。その結果は、人を死と滅びの世界へ陥れることです。神はそのような世をそのままにしてはおかれません。神は救い主を送って、そうした悪しき力の支配下にある世に生きている人間を、御自身と結びつけることによって人を悪しき世から切り離し、新しい命の世界で生きる者としてくださいます。それが救いです。そしてそのことが、「神から生まれる」ということの内容です。かつては死に向かう世界に生きていた者が、キリストを信じる信仰によって死から命へと移されるのです。それがここで言われる「勝利」です。それによってわたしたちは、死を超えた希望の中で地上の生を全うすることができるものとされます。十字架において、わたしたちに代わって死んでくださったイエスを、唯一の救い主として信じる者には、究極的に、罪と死に対する勝利が約束されています。これこそが福音であり、この約束こそがわたしたちに慰めと平安をもたらすのです。

しかしわたしたちを取り巻く現実は、「勝利」と言われることからほど遠いものであると叫びたくなる状況です。にもかかわらず、わたしたちの世界の現実よりも確実に、力強く、聖書は主イエスの勝利を宣言しています。その根拠は、主が悪や罪の結果としての死を打ち破ってよみがえられたことです。罪の力、死の力が最後的なものではなく、それを打ち破る死の克服の出来事、すなわち復活が、主に結びつく者にもたらされる最後の事柄です。勝利の主イエスは、「わたしのもとに来い」と招き、「わたしを信ぜよ」と命じておられます。「わたしの勝利はあなたのためのものだ」、と語りかけておられます。それゆえ大切なことは、一筋に勝利の主イエス・キリストに向かっていく信仰こそがわたしたちの希望の基となるとの確信です。勝利の主は、すべての人にご自身の勝利を分け与えようとしておられます。その主の御心に応えて働くのが地上の教会の務めであり、責任です。