奏楽 | 古賀 洋子 |
招詞 | 詩編6編2~4節 (旧約 p838) |
讃美歌 | 9 ちからの主を |
祈祷 | |
聖書 | マルコによる福音書5章25~34節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 75 ものみなこぞりて |
説教 | 「主イエスに触れるとき」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 263 よろこばしき |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 542 よをこぞりて |
祝祷 | |
後奏 |
投稿者: 共同管理者MT
「少女よ、起きなさい」
マルコによる福音書5章21~24、35~43節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
「わたしの娘が死にそうです」、これは聖書におけるある父親の叫びです。これに似た訴えや叫びは今日でも聞かれます。あらゆるところで命が危機にさらされています。その叫びがしばしば空しく消えてしまうのは、それが、その叫びを正しく受け止めてくださる方に向けられていないからかもしれません聖書においては、その叫びが主イエスに向けられることによって、娘の命が救われた物語が記されています。その出来事に耳を傾けてみましょう。
ユダヤ教の集会所(会堂)において責任を持っている会堂長のヤイロという人物が、死にそうな娘のために今、主イエスのもとにやってきて、この訴えをしています。このことはヤイロにとってはある種の冒険でした。なぜなら、そのころ既にユダヤ人たちの間にイエスに対する殺意を抱く者たちが現れていたからです(3:6参照)。そういう中でユダヤ人の指導者が主の前にひれ伏すことは、人々の反感を買って、彼自身の身に危険を招くことになるかもしれないからです。しかしヤイロにおいてはその恐れよりも、娘に対する愛の方が勝っていました。その愛が彼を主のもとに走らせているのです。
主は、ヤイロの訴えを聞いてヤイロの家に向かわれます。「よし、行こう」とすぐに動き出さる主のお姿にわたしたちは平安と希望を抱かせられます。しかしその道行きの途中で、中断を余儀なくさせられることが起こりました。それは長い間出血の止まらない女性が主に癒しを求めたことです。主はこの女性にも丁寧に対応されるのですが、気になるのはヤイロの気持ちです。「早く家に案内したい」という焦る気持ちが、主に対する信頼を薄くしてしまわないだろうかと考えさせられます。わたしたちもしばしば、主のわたしたちへの関わり方がのろい、遅いと感じることがあるかもしれません。わたしたちは身勝手に主に対して、自分の方だけを見ていてほしいと願うのです。
さらにヤイロにとって次の試練が襲います。それはヤイロの家の人たちがやってきて、「娘さんは亡くなりました。主イエスに来ていただくには及びません」と告げたからです。死んだ者はもはやどうすることもできないという考えが家の人たちにあることが分かります。ヤイロはどうしたでしょうか。彼は岐路に立たされています。しかし主はヤイロの判断を待つことなく、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言って、ヤイロの家に向かって行かれます。少女の死の知らせは、主にとっては何の妨げにもならないのです。
ヤイロの家に着くと人々は少女の死を悼んで泣き騒いでいました。しかし主は構うことなく娘のもとに行き、「タリタ、クム」と言われました。それはアラム語で、「少女よ、起きなさい」という意味です。あたかも眠っている子を起こすかのように声をかけておられます。その言葉によって少女は起き上がりました。生き返ったのです。主なる神の力が御子イエスを通して驚くべき事態を生じさせています。これは、やがて起こる主イエスの死からの復活の予兆ですし、また終わりの時のわたしたちの「からだのよみがえり」の約束のしるしです。主に結びついて死んだ者に、主は終わりの時に「起きなさい」と声をかけて、死から命に移してくださるでしょう。
主日礼拝 2021.01.03
奏楽 | 富樫 理子 |
招詞 | 詩編100編1~3節 (旧約 p937) |
讃美歌 | 7 主のみいつと |
祈祷 | |
聖書 | 列王記上17章17~24節 (旧約 p562) マルコによる福音書5章21~24、35~43節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 164 こひつじをば |
説教 | 「少女よ、起きなさい」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 511 みゆるしあらずば |
聖餐式 | |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 542 よをこぞりて |
祝祷 | |
後奏 |
主日礼拝 2020.12.27
奏楽 | 古賀 洋子 |
招詞 | エレミヤ書31章15~17節 (旧約 p1235) |
讃美歌 | 6 われら主をたたえまし |
祈祷 | |
聖書 | マタイによる福音書2章13~23節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 121 まぶねのなかに |
説教 | 「幼子イエスの苦しみ」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 272 ナザレのふせやに |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 541 ちち、みこ、みたまの |
祝祷 | |
後奏 |
「幼子イエスの苦しみ」
マタイによる福音書2章13~23節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
ベツレヘムで神の御子の誕生をお祝いした学者たちが、ヘロデのもとに立ち寄らないで東の方に帰った後、ベツレヘムでは何が起こったでしょうか。2章17節では、学者たちにだまされたことを知ったヘロデ王が、怒りと恐怖の中でベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子を一人残らずに殺したことが記されています。残虐極まりないことが起こっています。そのようなヘロデによる危害から御子イエスはどのようにして免れることができたのでしょうか。それは神の使いがヨセフに現れて「エジプトに逃げよ。神のお告げがあるまでそこに留まれ」と命じたからでした。
ヨセフの一家がエジプトに逃げた後、ヘロデは上に述べましたような残虐な行為を行っています。自分の王としての地位を将来脅かすことになるかもしれない者を彼はすべて無きものにしようとしています。そのヘロデが死んだ後、主の使いがエジプトにいるヨセフに現れてヘロデの死を知らせ、イスラエルに帰るように促します。しかしイスラエルの国では、ヘロデの息子アルケラオが新たに王となっていました。主の使いがまた現れて、南のユダヤではなく、北のガリラヤ地方のナザレに行けと命じました。そのナザレで主イエスは少年期・青年期を過ごされることになります。イエスはこうして「ナザレのイエス」と呼ばれるようになりました。
このように御子イエスは誕生と成長の幼い時から、既に多くの苦難と恐怖を味合われました。それは何を意味しているのでしょうか。それは、それらのことの中に、のちに受けられる十字架の苦難と死が予兆されているということです。「イエスの飼い葉桶には既に十字架の影がさしている」と言われることもあるくらいです。
しかし御子イエスはそうした苦難と脅威の中でも神によって守られました。神の救いの御計画が、御子の十字架によって成し遂げられるまでは、御子イエスは死んではならないのです。罪人の救いという大事業が果たされるまでは、主イエスは苦難をくぐり抜けて行かなければなりませんでした。事実、父なる神はそのようにしてくださいました。見えない御手によって、御子イエスを危機から守り続けられました。そして神の御計画の完成の時が来たならば、神は御子の命が奪い取られることさえお許しになり、永遠の昔から立てておられた罪人の救いを完成なさるのです。なんと人知では測り知ることの出来ない神の御計画の深遠さであろうか、またなんと神のわたしたち罪人を救おうとされる愛と熱意が変わらざるものであろうかと考えさせられます。
ところで主イエスのご降誕は旧約聖書の預言が成就したということをわたしたちは教えられましたが、御子のその後のことも既に旧約聖書に預言されていたということをマタイは繰り返し明らかにしています。15節、18節、そして23節の引用は、それぞれ旧約聖書からのものです。これによってマタイは、御子に起こるすべてのことは偶然のことではなく、既に神の御計画の中にあったことを明らかにしています。そのようにして神はずっと御子と共におられて、救いの御計画を実行して行かれたのです。
主日礼拝 2020.12.20(クリスマス礼拝・日曜学校と合同)
奏楽 | 十時 やよい |
招詞 | ミカ書5章1節 (旧約p1454) |
讃美歌 | 108 いざうたえ |
祈祷 | |
聖書 | マタイによる福音書2章1~12節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 98 あめにはさかえ |
説教 | 「神のひとり子の誕生」 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 112 もろびとこぞりて |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 541 ちち、みこ、みたまの |
祝祷 | |
後奏 |
「その子をイエスと名付けよ」
マタイによる福音書1章18~25節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
系図の最後に「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(17)と記されていることの詳細が、18節以下で展開されます。ヨセフとマリアは結婚の約束はしていましたが、まだ一緒に住んではいませんでした。そういう中で、夫となるヨセフに、マリアの懐妊の知らせがもたらされたのです。それは聖霊によるものでしたが、初めの内はそのことが分からないヨセフにとってそれは大きな苦悩となりました。もしかしてマリアの胎内の子は他の男性の子かも知れないと思い悩んだヨセフは、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろう」としていたのです。御子の誕生に関してルカによる福音書ではマリアの戸惑いが記されていますが、マタイによる福音書ではこのようにヨセフの苦悩が強調されています。クリスマスの出来事は、明るさから始まったのではなく、暗さと苦悩から始まりました。
思い悩むヨセフに、主の天使がさらに「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったものである。恐れずマリアを迎え入れなさい」と告げました。神が特別な働きを通して、マリアの胎内に御子を宿されたのです。そしてその胎の子は男の子であり、名前を「イエス」と名付けなさいとまで告げ知らされています。
この段階でヨセフにこのことの深い意味が理解できたかどうかは不明ですが、天使が告げたとおりに彼は恐れと疑いを乗り越えて、マリアを妻として迎え入れました。そしてやがて二人の間に、天使が告げたとおりに男の子が生まれ、その子の名をイエスと命名しました。
ところでヨセフは「正しい人であった」(19)と記されています。「正しさ」とは何でしょうか。ヨセフにとっての正しさとは、神の律法に従うことでした。マリアの懐妊が姦淫の結果であれば、律法に従って彼女を石打ちにする、それが律法に従うときの彼の正しさです。それは彼にとっては耐え難いことでした。しかし、律法に正しく従うということにはもう一つの面があります。律法の精神は「愛」です。それを実行することがもう一つの正しさです。ヨセフはこの愛を選択します。マリアの胎の子の由来を問うことをせずひそかに離縁し、彼女を独身の女性として自由にすることによって、彼女に姦淫の罪がないものにしようとしているのです。彼女を何とかして救おうとしていることに彼の愛があります。神はそのように彼の苦悩の窮まるところでヨセフに臨み、マリアの懐妊をめぐる真実が明らかにされるのです。彼は苦悩から解放されました。
神は、そのようにわたしたちの苦悩がもっとも深くなるところに臨んでくださって、わたしたち一人ひとりに苦悩からの解放を与えてくださいます。苦悩や憂いは神を閉め出すのではなく、神との出会いの場となりうるのです。クリスマスを迎えようとしているわたしたちにも、喜びだけでなく、不安や痛みや重い課題があります。明るく輝くクリスマスの時期だからこそ、返って自分が抱えている闇は暗さを増すことがあります。しかしそのようなわたしたちに対してクリスマスの神は、「恐れるな。わたしはいつもあなたがたと共にいる」と語りかけてくださるのです。この「あなたがた」の中に、ここにいるわたしたち一人ひとりが含まれています。
クリスマス賛美礼拝

- 日 時 12月24日(木)午後6時30分
- 司 会・メッセージ 牧師 久野 牧
- 奏 楽 十時 やよい
礼拝順序
前奏
点火
<メシア預言>
聖書
讃美歌
<受胎告知>
聖書
讃美歌
<救い主の誕生>
聖書
讃美歌
-消火・点燈-
<御子礼拝>
聖書
メッセージ
祈り
讃美歌
<派遣と祝福>
派遣 (ルカによる福音書2章29~32節によって)
祝福
後奏

佐賀めぐみ教会案内
・主日礼拝 毎 日曜日
・日曜学校 毎 日曜日
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主日礼拝 2020.12.13(待降節第3週)
奏楽 | 古賀 洋子 |
招詞 | イザヤ書7章14~15節 (旧約p1071) |
讃美歌 | 3 あめつちのみかみをば |
祈祷 | |
聖書 | マタイによる福音書1章18~25節 |
信仰告白 | 使徒信条 |
讃美歌 | 97 あさひはのぼりて |
説教 | 「その子をイエスと名付けよ」(待降節 第2回) 佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧 |
祈祷 | |
讃美歌 | 98 あめにはさかえ |
献金と感謝祈祷 | |
主の祈り | |
頌栄 | 541 ちち、みこ、みたまの |
祝祷 | |
後奏 |
「イエス・キリストの系図」
マタイによる福音書1章1~17節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
本日と次週13日の礼拝は、待降節の説教として、マタイによる福音書1章を取り上げます。そして12月20日のクリスマス礼拝では、2章1~12節からクリスマスのメッセージを聞き取りたいと考えています。
この系図はイスラエルの祖先アブラハムから始めて、ヨセフの妻マリアから御子イエス・キリストがお生まれになるまでの流れが言い表されています。歴史的に必ずしも正確ではありませんし、全期間を14代ずつ三組に分けているのも人為的な感じがします。しかしこれは史実に正確であることが本質的なことではなくて、この系図全体を通して神の約束が果たされたことを言い表そうとしているものです。したがってこの系図は厳密な歴史的記述というよりも、イスラエルの民の信仰告白という方が当たっているでしょう。いくつかの特徴があるのですが、ここでは二つの点に絞ってご一緒に考えてみましょう。
一つは、神が大いなる繁栄を約束されたアブラハムから始まって、その末にメシアが誕生すると告げられたダビデを経てイエス・キリストに至る過程における最終段階で、つまりイエスの誕生において、血の流れが途切れているということです。アブラハムの系統を引いているのはヨセフです。しかし、イエスはヨセフの血を引く子ではありません。それでは母マリアがアブラハムの系統の末かと言うと、そのことは系図で言い表されていません。それでもイエス・キリストはダビデの子と言われています。なぜなのでしょうか。それは、母マリアがダビデの末のヨセフと結婚することによって、マリアが生む子は、その誕生のいきさつがいかなるものであれ、ダビデ家の末となる、というのがイスラエルの考えだからです。こうして、神が先祖に約束された救い主の出現は、長い時間をかけながら現実のこととなりました。それを明らかにすることによって、この系図は神の約束の真実を告白しているのです。系図の中に「神は偽るこのないお方である」という信仰を読み取ることができます。
もう一つの特徴は、この系図の中にマリアを除いて四人の女性が登場していることです。タマル、ラハブ、ルツ、そしてウリヤの妻(バト・シェバ)です。これらの女性は際立って立派な人であったかと言うとそうではありません。彼女たちは皆、非ユダヤ人(異邦人)であり、子どもの出産に当たって、それぞれに罪や過ちが伴っています。できれば系図に載せたくない人たちです。そうした女性が系図の中にあえて加えられることによって、系図が汚れるということはないのでしょうか。そうではありません。そのことによって言い表されていることは、ユダヤ人以外の血が混入したり、過ちが犯されたりしても、神がいったん約束されたことは必ず果たされるということです。さらに神は社会的にまた、世間的に地位の高い者や優れている者をご自身の計画を実行されるときの器として用いられるのではなく、逆に貧しく汚れにまみれている者を用いてご自身の救いの業を進めていかれるのです。そのような神であられるからこそ、ここにいるわたしたちも神の救いに与ることができるものとされています。誇るべきものを何も持たないわたしたちですが、この系図の末にお生まれになったメシアは、まさしくわたしたちのためのお方です。