「その子をイエスと名付けよ」

マタイによる福音書1章18~25節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

系図の最後に「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(17)と記されていることの詳細が、18節以下で展開されます。ヨセフとマリアは結婚の約束はしていましたが、まだ一緒に住んではいませんでした。そういう中で、夫となるヨセフに、マリアの懐妊の知らせがもたらされたのです。それは聖霊によるものでしたが、初めの内はそのことが分からないヨセフにとってそれは大きな苦悩となりました。もしかしてマリアの胎内の子は他の男性の子かも知れないと思い悩んだヨセフは、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろう」としていたのです。御子の誕生に関してルカによる福音書ではマリアの戸惑いが記されていますが、マタイによる福音書ではこのようにヨセフの苦悩が強調されています。クリスマスの出来事は、明るさから始まったのではなく、暗さと苦悩から始まりました。

思い悩むヨセフに、主の天使がさらに「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったものである。恐れずマリアを迎え入れなさい」と告げました。神が特別な働きを通して、マリアの胎内に御子を宿されたのです。そしてその胎の子は男の子であり、名前を「イエス」と名付けなさいとまで告げ知らされています。

この段階でヨセフにこのことの深い意味が理解できたかどうかは不明ですが、天使が告げたとおりに彼は恐れと疑いを乗り越えて、マリアを妻として迎え入れました。そしてやがて二人の間に、天使が告げたとおりに男の子が生まれ、その子の名をイエスと命名しました。

ところでヨセフは「正しい人であった」(19)と記されています。「正しさ」とは何でしょうか。ヨセフにとっての正しさとは、神の律法に従うことでした。マリアの懐妊が姦淫の結果であれば、律法に従って彼女を石打ちにする、それが律法に従うときの彼の正しさです。それは彼にとっては耐え難いことでした。しかし、律法に正しく従うということにはもう一つの面があります。律法の精神は「愛」です。それを実行することがもう一つの正しさです。ヨセフはこの愛を選択します。マリアの胎の子の由来を問うことをせずひそかに離縁し、彼女を独身の女性として自由にすることによって、彼女に姦淫の罪がないものにしようとしているのです。彼女を何とかして救おうとしていることに彼の愛があります。神はそのように彼の苦悩の窮まるところでヨセフに臨み、マリアの懐妊をめぐる真実が明らかにされるのです。彼は苦悩から解放されました。

 神は、そのようにわたしたちの苦悩がもっとも深くなるところに臨んでくださって、わたしたち一人ひとりに苦悩からの解放を与えてくださいます。苦悩や憂いは神を閉め出すのではなく、神との出会いの場となりうるのです。クリスマスを迎えようとしているわたしたちにも、喜びだけでなく、不安や痛みや重い課題があります。明るく輝くクリスマスの時期だからこそ、返って自分が抱えている闇は暗さを増すことがあります。しかしそのようなわたしたちに対してクリスマスの神は、「恐れるな。わたしはいつもあなたがたと共にいる」と語りかけてくださるのです。この「あなたがた」の中に、ここにいるわたしたち一人ひとりが含まれています。