「幼子イエスの苦しみ」

マタイによる福音書2章13~23節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ベツレヘムで神の御子の誕生をお祝いした学者たちが、ヘロデのもとに立ち寄らないで東の方に帰った後、ベツレヘムでは何が起こったでしょうか。2章17節では、学者たちにだまされたことを知ったヘロデ王が、怒りと恐怖の中でベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子を一人残らずに殺したことが記されています。残虐極まりないことが起こっています。そのようなヘロデによる危害から御子イエスはどのようにして免れることができたのでしょうか。それは神の使いがヨセフに現れて「エジプトに逃げよ。神のお告げがあるまでそこに留まれ」と命じたからでした。

ヨセフの一家がエジプトに逃げた後、ヘロデは上に述べましたような残虐な行為を行っています。自分の王としての地位を将来脅かすことになるかもしれない者を彼はすべて無きものにしようとしています。そのヘロデが死んだ後、主の使いがエジプトにいるヨセフに現れてヘロデの死を知らせ、イスラエルに帰るように促します。しかしイスラエルの国では、ヘロデの息子アルケラオが新たに王となっていました。主の使いがまた現れて、南のユダヤではなく、北のガリラヤ地方のナザレに行けと命じました。そのナザレで主イエスは少年期・青年期を過ごされることになります。イエスはこうして「ナザレのイエス」と呼ばれるようになりました。

このように御子イエスは誕生と成長の幼い時から、既に多くの苦難と恐怖を味合われました。それは何を意味しているのでしょうか。それは、それらのことの中に、のちに受けられる十字架の苦難と死が予兆されているということです。「イエスの飼い葉桶には既に十字架の影がさしている」と言われることもあるくらいです。

しかし御子イエスはそうした苦難と脅威の中でも神によって守られました。神の救いの御計画が、御子の十字架によって成し遂げられるまでは、御子イエスは死んではならないのです。罪人の救いという大事業が果たされるまでは、主イエスは苦難をくぐり抜けて行かなければなりませんでした。事実、父なる神はそのようにしてくださいました。見えない御手によって、御子イエスを危機から守り続けられました。そして神の御計画の完成の時が来たならば、神は御子の命が奪い取られることさえお許しになり、永遠の昔から立てておられた罪人の救いを完成なさるのです。なんと人知では測り知ることの出来ない神の御計画の深遠さであろうか、またなんと神のわたしたち罪人を救おうとされる愛と熱意が変わらざるものであろうかと考えさせられます。

ところで主イエスのご降誕は旧約聖書の預言が成就したということをわたしたちは教えられましたが、御子のその後のことも既に旧約聖書に預言されていたということをマタイは繰り返し明らかにしています。15節、18節、そして23節の引用は、それぞれ旧約聖書からのものです。これによってマタイは、御子に起こるすべてのことは偶然のことではなく、既に神の御計画の中にあったことを明らかにしています。そのようにして神はずっと御子と共におられて、救いの御計画を実行して行かれたのです。

「その子をイエスと名付けよ」

マタイによる福音書1章18~25節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

系図の最後に「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(17)と記されていることの詳細が、18節以下で展開されます。ヨセフとマリアは結婚の約束はしていましたが、まだ一緒に住んではいませんでした。そういう中で、夫となるヨセフに、マリアの懐妊の知らせがもたらされたのです。それは聖霊によるものでしたが、初めの内はそのことが分からないヨセフにとってそれは大きな苦悩となりました。もしかしてマリアの胎内の子は他の男性の子かも知れないと思い悩んだヨセフは、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろう」としていたのです。御子の誕生に関してルカによる福音書ではマリアの戸惑いが記されていますが、マタイによる福音書ではこのようにヨセフの苦悩が強調されています。クリスマスの出来事は、明るさから始まったのではなく、暗さと苦悩から始まりました。

思い悩むヨセフに、主の天使がさらに「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったものである。恐れずマリアを迎え入れなさい」と告げました。神が特別な働きを通して、マリアの胎内に御子を宿されたのです。そしてその胎の子は男の子であり、名前を「イエス」と名付けなさいとまで告げ知らされています。

この段階でヨセフにこのことの深い意味が理解できたかどうかは不明ですが、天使が告げたとおりに彼は恐れと疑いを乗り越えて、マリアを妻として迎え入れました。そしてやがて二人の間に、天使が告げたとおりに男の子が生まれ、その子の名をイエスと命名しました。

ところでヨセフは「正しい人であった」(19)と記されています。「正しさ」とは何でしょうか。ヨセフにとっての正しさとは、神の律法に従うことでした。マリアの懐妊が姦淫の結果であれば、律法に従って彼女を石打ちにする、それが律法に従うときの彼の正しさです。それは彼にとっては耐え難いことでした。しかし、律法に正しく従うということにはもう一つの面があります。律法の精神は「愛」です。それを実行することがもう一つの正しさです。ヨセフはこの愛を選択します。マリアの胎の子の由来を問うことをせずひそかに離縁し、彼女を独身の女性として自由にすることによって、彼女に姦淫の罪がないものにしようとしているのです。彼女を何とかして救おうとしていることに彼の愛があります。神はそのように彼の苦悩の窮まるところでヨセフに臨み、マリアの懐妊をめぐる真実が明らかにされるのです。彼は苦悩から解放されました。

 神は、そのようにわたしたちの苦悩がもっとも深くなるところに臨んでくださって、わたしたち一人ひとりに苦悩からの解放を与えてくださいます。苦悩や憂いは神を閉め出すのではなく、神との出会いの場となりうるのです。クリスマスを迎えようとしているわたしたちにも、喜びだけでなく、不安や痛みや重い課題があります。明るく輝くクリスマスの時期だからこそ、返って自分が抱えている闇は暗さを増すことがあります。しかしそのようなわたしたちに対してクリスマスの神は、「恐れるな。わたしはいつもあなたがたと共にいる」と語りかけてくださるのです。この「あなたがた」の中に、ここにいるわたしたち一人ひとりが含まれています。

「イエス・キリストの系図」

マタイによる福音書1章1~17節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

本日と次週13日の礼拝は、待降節の説教として、マタイによる福音書1章を取り上げます。そして12月20日のクリスマス礼拝では、2章1~12節からクリスマスのメッセージを聞き取りたいと考えています。

この系図はイスラエルの祖先アブラハムから始めて、ヨセフの妻マリアから御子イエス・キリストがお生まれになるまでの流れが言い表されています。歴史的に必ずしも正確ではありませんし、全期間を14代ずつ三組に分けているのも人為的な感じがします。しかしこれは史実に正確であることが本質的なことではなくて、この系図全体を通して神の約束が果たされたことを言い表そうとしているものです。したがってこの系図は厳密な歴史的記述というよりも、イスラエルの民の信仰告白という方が当たっているでしょう。いくつかの特徴があるのですが、ここでは二つの点に絞ってご一緒に考えてみましょう。

一つは、神が大いなる繁栄を約束されたアブラハムから始まって、その末にメシアが誕生すると告げられたダビデを経てイエス・キリストに至る過程における最終段階で、つまりイエスの誕生において、血の流れが途切れているということです。アブラハムの系統を引いているのはヨセフです。しかし、イエスはヨセフの血を引く子ではありません。それでは母マリアがアブラハムの系統の末かと言うと、そのことは系図で言い表されていません。それでもイエス・キリストはダビデの子と言われています。なぜなのでしょうか。それは、母マリアがダビデの末のヨセフと結婚することによって、マリアが生む子は、その誕生のいきさつがいかなるものであれ、ダビデ家の末となる、というのがイスラエルの考えだからです。こうして、神が先祖に約束された救い主の出現は、長い時間をかけながら現実のこととなりました。それを明らかにすることによって、この系図は神の約束の真実を告白しているのです。系図の中に「神は偽るこのないお方である」という信仰を読み取ることができます。

もう一つの特徴は、この系図の中にマリアを除いて四人の女性が登場していることです。タマル、ラハブ、ルツ、そしてウリヤの妻(バト・シェバ)です。これらの女性は際立って立派な人であったかと言うとそうではありません。彼女たちは皆、非ユダヤ人(異邦人)であり、子どもの出産に当たって、それぞれに罪や過ちが伴っています。できれば系図に載せたくない人たちです。そうした女性が系図の中にあえて加えられることによって、系図が汚れるということはないのでしょうか。そうではありません。そのことによって言い表されていることは、ユダヤ人以外の血が混入したり、過ちが犯されたりしても、神がいったん約束されたことは必ず果たされるということです。さらに神は社会的にまた、世間的に地位の高い者や優れている者をご自身の計画を実行されるときの器として用いられるのではなく、逆に貧しく汚れにまみれている者を用いてご自身の救いの業を進めていかれるのです。そのような神であられるからこそ、ここにいるわたしたちも神の救いに与ることができるものとされています。誇るべきものを何も持たないわたしたちですが、この系図の末にお生まれになったメシアは、まさしくわたしたちのためのお方です。

今からでも遅くはない

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マタイによる福音書20章1-16節

牧師 久野 牧

私たちはいろんなことで順番を気にする面を持っている。例えば、
あることに関する情報や噂を誰が最初に手にしたかとか、あることを知ったことが誰よりも後であったことが悔しいといった具合にである。そして自分が先であることが分かったときに、安心感を覚えたり、優越感を抱くことさえあるのだ。

信仰の世界ではどうであろうか。そこでも早いとか遅いとか、ある人よりも先だとか後だとかいうことが大事であったり、問題になったりするのであろうか。それともそのようなことから解放された自由な世界がそこにはあるのであろうか。そうしたことについて、主が語られたたとえ話からご一緒に考えてみたい。今日取り上げるたとえ話はマタイによる福音書20章1-16節の「ぶどう園の労働者のたとえ」である。

これはイスラエルの国においてよく見られるぶどうの収穫時期の忙しさを背景にして語られたものである。ごく普通にみられる光景であるが、しかし特別な面も含んでいる。それは労働者に対する賃金の支払い方法である。つまり朝早くから一日中働いた者に対しても、夕方に雇われてわずか一時間しか働かなかった人に対しても、主人によって同じ額の賃金が支払われているのである。労働時間がそれぞれ異なるのに、皆同じ額が支払われることは、一般には受け入れられない。それでは社会における雇用関係は成り立たなくなってしまうと考える人がいてもおかしくはない。しかしここでは賃金体系がいかにあるべきかが語られているのではない。神とわたしたち人間との関係が語られている。主イエスは、神が私たち人間をどのように取り扱われるかを、たとえによって語ろうとしておられるのである。

たとえの内容に入ろう。ぶどう園の主人は、収穫のために労働者を集めようとして「広場」に出かけて行った。そこは商売をする人が店を開いたりしていたし、自分を雇ってくれる人を待つ労働者たちが大勢いるところでもある。主人がこの広場に最初に出かけたのは夜明けであった。朝の6時頃である。一日の労働に対する賃金として1デナリオンの労働契約を結んでいる。1デナリオンは当時の貨幣単位で、労働者が一日働いた時に手にすることの出来る賃金を表している。さらに主人は午前9時頃、12時頃、午後3時頃にも出かけて労働者を雇っている。これらの人たちとは一日1デナリの賃金の契約はしていないが、「ふさわしい賃金」を払うということで雇っている。ぶどうの収穫時期の忙しさが良く描かれている。

私たちはここで少し立ち止まって夜が明けると同時に出かけていき、その後も繰り返し人をぶどう園に送り込むこの主人は一体誰なのかをということを考えてみたい。1節に「天の国は・・・」と書き始められていることからも分かるように、この主人によって言い表されているお方は端的に言えば神である。私たちの神は、ぶどう園の主人が人を雇うために何度も広場に出かけていくように、私どもの救いのためにご自分から私たちのところに出かけてくださるお方なのである。この神は御子イエス・キリストにおいて私どものもとに来てくださった。御子をとおして私たちを神のぶどう園、すなわち御国へと導き入れてくださるお方としての神である。わたしたちが何かをする前に、神の側から私たちに近づき、私たちをご自身の御用のために働く者としようとしておられるイエス・キリストの父なる神を、この主人を通して見つめることが私たちに求められているのだ。

そうであれば雇われる労働者たちは当然わたしたちのことである。ここで労働者のことが「何もしないで広場に立っている人々」(3)として描かれていることに注目することも重要である。もしかすると今生きている私たちも、真に力と思いを注ぐべきことを見出せないまま「何もせずに立っている」に等しい生き方をしている者たちであるかもしれない。少なくとも神の御目にはそのように映っているに違いない。そのような私たちに神は、「あなたも私のぶどう園で働きなさい」と招いてくださっているのだ。神の救いの御計画の一端を担うものとして働くようにと、時に応じて一人ひとりに呼び掛けてくださっているのである。この神を心に刻み込みたい。

たとえにおいてさらに注目すべきことは、主人が夕方の5時頃になっても出かけていることである。収穫作業は日暮れと共に終わる。残る労働時間はわずか1時間ほどである。主人はその時刻にも広場に立っている者たちに向かって、「なぜ何もしないで一日中ここに立っているのか」と問うておられる。彼らの答えはこうであった。「誰も雇ってくれないのです」。なんという寂しい答えであろうか。彼らを相手にする人がいないというのである。主人は労働終了まで1時間しか残っていないにもかかわらず、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」とぶどう園に送りこんでおられるのだ。ここに主人の憐みに満ちた姿が良く表されている。

夕暮れになっても仕事がなくて立ち尽くしていることは、彼らの責任というよりも、そうした人々を生み出してしまった社会の責任という面が強くあるのではないだろうか。同じ人間として生まれながら、他の人たちから顧みられず、相手にしてもらえない人々が確かにいるのだ。そうした人々をわたしたちは作り出してしまっているのではないだろうか。また他の人々が一日12時間、あるいは9時間、6時間働くことができる中にあって、わずか1時間しか働くことができないという制約を自分の体の中に抱えた人々が事実存在するのだ。それは労働時間の問題だけではなく、命の長さにもあてはまる。肉体的、精神的な病と障がいのために、他の人と比べて極端に短い時間で地上の生涯を終えてしまわなければならない人たちがいるのである。そのことをわたしたちは忘れてはならない。そうしたあとわずかで命ある時が過ぎ去ろうとしている人々の元にも神は近づいてくださって、「あなたたちも私のぶどう園に行きなさい」と招いてくださるのである。主なる神はどの様な人に対しても「あなたが必要なのだ」と言ってくださるのである。神の御子派遣の出来事にはそのような神の思いが込められている。

さてぶどう園の労働者への賃金支払いの時が来た。この賃金支払いの方法こそ、他のどこにおいても見ることの出来ないものである。支払いの順序も特徴的で、最後に雇われた人から先に受け取るというものであった。この事に注目する意味もあるが、今日はそのことには立ち入らない。それ以上に問題なのは、賃金の額である。夕方に雇われた人はわずか1時間の労働で1デナリオンを受け取った。またいろんな時間に雇われた人たちも、労働時間に関係なくみな同じ1デナリオンの賃金であった。早朝から働いた人たちはもっと多くもらえるだろうと期待したのであるが、初めの約束通り、同じ1デナリオンであった。そのことが分かったとき、早朝から一日中働いてきた労働者たちの怒りが爆発したのである。それは当然のことであろう。

しかしぶどう園の主人は賃金の支払いにおいて不正をしたであろうか。主人の側には何の不正もないのである。なぜなら早朝に雇った人たちには一日1デナリと約束し、その通りの支払いがなされているのだから。途中で雇われた人たちも「ふさわしい賃金を払う」との約束のもとで働き、主人がふさわしいと思う額が支払われた。主人はそれぞれの労働者に一日を生きるに必要な額を支払ったのである。「友よ、あなたに不当なことはしていない」との主人の言葉はその通りである。この賃金支払いの方法と内容は、主人の自由な意志に基づくものであり、また愛によるものであった。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と語る主人は、まさしくイエス・キリストにおいて私たちのもとに来てくださった真の神の姿である。

神はこのぶどう園の主人のように、すべての者に対して等しい恵みを用意しておられるお方である。地上における生き方や働きや与えられた環境や能力が異なっていても、神が一人ひとりをご自分の子として捕え、神の国に招こうとしておられることにおいて、すべての人は等しいのである。ある人には力強い働きができるようにと健康な肉体と精神を与えておられる。また、たとえ肉体的・精神的な面での健康ということにおいては恵まれていないとしても、その人々も神の国のために働くことの出来る場が備えられているのである。働きの内容においては異なっていても、共に神のぶどう園での働きを行うということでは変わりはないのだ。それぞれが神の目に尊い存在なのである。

そのようにすべての人をご自身の恵みの中に招いてくださる神を、私たちが知る時期や、その招きに応えて神のために働く時間は、いろんな時間にぶどう園に招かれた労働者がいるように、人によって異なっている。しかしそのことが異なっていても、皆等しく神の国の労働者として神によって用いられるのである。

ある人は幼い時から神を知ることが許されている。またある人は人生の夕暮れ近くに初めて神を知らされることもある。病床で神との出会いが与えられて洗礼へと導かれた後、数日で神のもとに召される人もいるのだ。そうした人にも神は、「あなたにも他の人と同様に支払ってやりたいのだ」と言ってくださる。その人々はそのような神の恵みの約束の中で生涯を全うすることができるのである。神の招きに答えるのに早すぎることも遅すぎることもない。今、神の招きの声を聴くことができるならば、その時がその人にとって神のぶどう園の一員となる時なのである。

トゥルナイゼン(スイスの説教者)のことば 「信仰に生き始めるのに誰も弱すぎるとか、齢をとりすぎているとか、誰よりも遅すぎたというようなことはない。神の目から眺められると、あらゆる時が信仰の目覚めの時、小さな信仰の始まりの時なのだ」。

どうかすべての人が、神の国に招かれていること、神の国の労働者としてのその人なりの働きに召されていることを覚えてほしい。そしてそれを知らされた者のなすべきことは、立ち上がって主なる神への応答に生き始めることである。本日礼拝に初めて出席された方がおられたら、その方に、今神の招きがなされているのである。