「飼い葉桶の中の救い主」 (クリスマス礼拝説教) 

ルカによる福音書2章1-7節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

今日はクリスマス礼拝です。どのような状況で神のひとり子、救い主イエス・キリストがお生まれになったかを、聖書から聞き取りましょう。

イエスさまの父と母になることを天使から告げられたヨセフとマリアは、イスラエルの北の地方のガリラヤのナザレに住んでいた若い男女でした。そこはガリラヤ湖近くの小さな町です。ところが、イスラエルの国を支配していたローマの王からイスラエルの全国民に、自分の故郷で住民登録をせよとの命令が下されました。それは、この国に何人の人がいるか、戦争に行ける男子はどれくらいか、また税金を納めることができる者はどれくらいいるかなどを調べるためでした。ヨセフとマリアは、ヨセフの故郷であるベツレヘムで登録をしなければなりませんでした。マリアさんのおなかは大きくなってもうすぐ赤ちゃんが生まれる時期だったのですが、ヨセフさんはマリアさんを連れてベツレヘムまで行くことにしました。

ナザレからベツレヘムまで、どれくらいの距離があるのでしょうか。地図で見ますと直線距離にして100~120キロはあります。この前の日曜学校の説教では、佐賀から長崎までぐらいだと話されました。逆の方向に行くと、佐賀から北九州くらいまでです。真っすぐには行けず、くねくねと曲がった道を行くとしたら、一週間くらいはかかる道のりでした。マリアさんは多分ロバに乗って、ヨセフさんは歩いて行くことにしました。つらい旅であったに違いありません。

イエスさまのお誕生の前に、こういう辛い旅があったことを忘れてはなりませんね。イエスさまの誕生を祝うクリスマスは、明るさや楽しさだけがあったのではなく、大変つらいことも背後にはあったということを心に刻んでおきたいと思います。

大変なことは、長い旅だけではありませんでした。一週間ほど歩いたあとやっと着いたベツレヘムでも、大変なことがありました。その一つは、ヨセフさんとマリアさんがベツレヘムに着いたときには、住民登録のために帰って来ていた人々によってその町はあふれていて、泊まるための宿を見つけることができなかったことです。二人はとても不安だったに違いありません。このあと祝会で見るDVDでは、二人が何軒もの宿を訪ねる場面が出てきます。いくつも断られるのです。

そのことは、大人の人に特に考えてもらいたいのですが、イエスさまは今も何人もの心の扉をたたいて、ご自身が受け入れられることを求めておられるのに、ほとんど断られるという人間の状況を示唆しているということです。他のことでいっぱいなので、イエス・キリストどころではない、ということなのでしょう。それでよいのかを考えさせられます。

さて、二人はやっと泊まる場所を見つけることができました。しかしそれは宿の暖かい部屋ではなくて、家畜小屋(馬小屋)でした。そこしか空いていなかったのです。そこで次の大変なことが生じます。それは家畜小屋に泊まっているその夜にマリアさんは、赤ちゃん、つまりイエスさまを産んだのです。

そこには温かい湯もありません。赤ちゃんをくるむ産着もありせん。赤ちゃんを寝かせる小さなベッドもありませんから、生まれたばかりのイエスさまは、家畜のえさを入れる飼い葉桶の中に寝かせられました。このように暗くて、寒くて、赤ちゃんのためのものが何もない家畜小屋でのイエスさまの誕生はとてもつらいことであったに違いありません。それでも赤ちゃんが無事に生まれたことを喜び合うマリアさんとヨセフさんの姿を想像すると、とてもいじらしく、けなげに思わされます。イエスさまの誕生はいろんなものが足りない中での誕生、貧しさの中での誕生でした。これも忘れてはなりません。

これらのことはとても不思議なことですが、なぜ神さまはひとり子イエスさまをこのような困難や貧しさの中で生まれさせられたのでしょうか。そのことを考える時に、イエスさまの誕生が、聖書に書いてあるのとは全く異なる状況であったらどうであっただろうかということを想像してみるのも良いかも知れません。イエスさまがもし、立派な宮殿(王様が住んでいる屋敷)や大病院で生まれたとしたら、羊飼いたちはそこに入ることができたでしょうか。外国の学者たちがそこに立ち入ることができたでしょうか。わたしたちも同じです。明るく輝く大きな屋敷の中で、立派なベッドに寝かせられているイエスさまを想像すると、わたしたちの足はすくんでしまいます。わたしたちは、イエスさまをわたしたちの身近な方として考えることはできないかも知れません。

しかし、実際はそうではありませんでした。イエスさまは家畜小屋で生れ、飼い葉桶の中に寝かせられたことを知るときに、わたしたちはイエスさまを、そして神さまをとても親しく、身近な方として感じるのです。わたしたちと同じ世界に住むためにイエスさまは来られたのだ、だからわたしたちは遠慮なくイエスさまに近づいて良いのだ、ということなのです。

また生まれた時から辛いことや苦しいことを味合われたイエスさまは、わたしたちのことを誰よりもよくわかってくださって、わたしたちに寄り添ってくださるのです。

わたしたちが苦しい時、悲しい時、つらい時に一番欲しいものは何でしょうか。それは自分のそばにいてくれる人、自分のことを分かってくれる人がいることです。馬小屋で生れたイエスさまは、わたしたちに対して、「わたしがいつもあなたのそばにいるよ」と言ってくださっているのです。そのようなイエスさまであることを教えるために、神さまは、わざわざひとり子イエスさまを小さな町ベツレヘムの貧しい馬小屋で生れるようにされたのです。

そのように考えると、ヨセフさんとマリアさんが王(政治的権力)の命令に振り回されているように見えるこの出来事は、実は、さらにその上に見えない神の力が働いていたことを教えられるのです。ベツレヘムでの救い主の誕生は、旧約聖書・ミカ書5章1節に預言されていることが実現したものでした。その預言が実現するために、神さまはヨセフとマリアをベツレヘムに行かせ、そこでイエスさまを生むようにされたのです。小さな町での出来事にも、神さまの御手が伸ばされていることが分かります。この世のことに振り回されるわたしたちですが、それらのさまざまなことの背後に、神さまの御心がどのように働いているのかを考えることは大切なことですね。そして神の御心が分かるとき、わたしたちは苦しいことの中にも平安や希望を見出すに違いありません。

イエスさまは、ヨセフさんたちが宿屋の扉を次々にたたき続けたように、今、わたしたちの心の扉をたたき続けておられます。「あなたの心の片隅にわたしを迎え入れてほしい」と呼びかけておられます。もしそうすることができれば、暗く冷たい馬小屋が明るく輝く部屋に変えられたように、わたしたちの心にも明かりがともされ、これまでとは違った生き方ができる者となるでしょう。

わたしたちがもし暗さや惨めさや醜さを抱えていたとしても、それをイエスさまは嫌われません。そこを目指して主イエスは近づいて行かれ、扉をたたかれるのです。「その暗さの中にわたしは宿りたいのだ」と主イエスは扉をたたかれます。そのノックの音が聞こえたら、わたしたちはすぐイエスさまを迎え入れるために、心の扉を開きましょう。クリスマスは、その決断が与えられる特別な日です。

「神の愛はあなたに向けて」

ヨハネによる福音書3章16~21節

佐賀めぐみ教会 秋の特伝礼拝 久野 牧

「聖書の中心的なメッセージは何か、ひとことで言って欲しい」と求められることがある。今日ご出席の求道者の中にも、そういう方がおられるかもしれない。それに対して、それは礼拝の中で告白する「使徒信条」に言い表されている、と答えることもできる。しかし、それは少し長すぎる。そういう場合には、聖書の中の有名な言葉を指し示す、ということもありうる。

例えば、「神は愛である」とか、「あなたの敵を愛しなさい」とか、「右の頬を打たれたら、左の頬も出しなさい」という言葉がある。さらには、「人からしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」といった言葉が、聖書の精神をよく表している、と言うこともできるであろう。しかし、それでも十分ではないように感じられる。

そういう中で、ヨハネによる福音書3章16節こそ、聖書の教えの集約である、と言われてきた。宗教改革者ルターはこの3章16節について、「これは小さい聖書である」、あるいは「これは小さな福音書である」と言った。それはこの一つの節に、聖書が述べようとしていること、あるいは福音書全体が述べようとしていることの中心的な内容が凝縮されている、という意味である。これは全聖書の縮図である、ということである。しかしこの句は、そういった意味で内容は深いのだが、必ずしも分かりやすいものではない。本日はこれについてご一緒に考えてみよう。

ところで信仰における第一の問題は、人間が何をするかではなく、神がわたしたち人間のために何をしてくださったか、である。そのことを知らせるのが、この聖句である。神のわたしたちに対する行為の中心に、人間に対する神の愛があるとこの句は述べている。そしてその神の愛は、神が独り子イエスを、この世に向かって、またわたしたちのために派遣されたことの中に、端的に表されている、というのである。

次のように述べられている。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(16節)。この一文の中の「その独り子」とは、神の独り子、イエス・キリストのことである。それはまた、神ご自身の人間との関りを表しているものである、と言ってもよい。また、「世」とは、わたしたち人間の世界のこと、もっと言えば、わたしたち人間そのもののことである。

神が独り子イエス・キリストを、わたしたち人間のもとに送られたことの中に、神の愛が表れている。神から何かを受けるに値しないわたしたちの中に、そのことが起こったのは、全く神の一方的な愛と恵みのゆえなのである。この句はそのことを述べている、そしてそれが聖書の中心的メッセージなのである。

それでは愛とは何であろうか。それは端的に言えば、

  • 相手を大切にすること、相手の存在に敬意を払うこと、
  • 相手を生かすように働きかけ、仕えること、
  • 相手とどんな時にも共にいようとすること、

そういった言葉で言い表すことができる。

それは、相手に対してつねに関心を持つことから始まるものである。愛の反対語は何であろうか。わたしたちは、愛の反対語として、憎しみということをすぐに思い浮かべるかもしれない。それも間違いではないが、愛の反対は、憎しみというより、無関心である、と言われる。愛を持つことと関心を持つこと、これは並行しており、同じことである。神はわたしたちを愛しておられる、神はわたしたち人間に対して、無関心ではない、つねに関心を持っておられる、そのしるしが、御子のわたしたちのもとへの派遣という出来事となって表されたのだ。

そのように自分が関心を持ち、愛している相手に、何かを与えるとしたら、あってもなくてもよいようなものを与えることはしない。自分にとって最も価値あるもの、尊いものを与えようとする。わたしたち人間でさえそうするのである。ましてや神は、ご自身にとって最も大事なものをわたしたち人間に与えてくださるのである。その最も大切なものが独り子イエス・キリストである。御子をこの世に送られたことこそが、神がわたしたちに関心をもっておられることの確かなしるし(証拠)なのである。

さらに愛や関心を持っている相手に対しては、相手と同じ所にいようとする。愛は、相手と同じ場に一緒にいたいと願う。相手がどんな状況であろうが、愛は、相手と共にそこにいようとするものである。たとえそれによって自分に痛みや損失が伴うことがあっても、そうしようとする。
神は、神から離れてしまっている人間のもとに、独り子イエスを送られた。それは、神はイエス・キリストをとおして、わたしたちと共にいようとしてくださっていることの表れである。神はイエス・キリストにおいて、わたしたちと同じところにまで降りてきてくださったのである。

それでは、何のために神はそうなさったのであろうか。神の人間に対する愛の行為は、何を目的としていたのであろうか。それについて聖書は続いて、次のように述べている。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節後半)。わたしたち人間が、神を知らないままに死んで行くことがないように、もっと積極的に言えば、人が「永遠の命」を得るために、神は御子を遣わされた、と言われている。

永遠の命とは、真の命、ほんものの命のことである。神は、それをイエス・キリストをとおして、わたしたちに与えようとしておられるのである。人が真の命に触れることがないままに、人生を終わることがないように、神は御子イエスをわたしたちのもとに送られたのである。

苦しみ、悩み、悲しみの中で、「自分はひとりぽっちだ」、「死にたい」と思うのではなくて、「あなたにはわたしがいつも一緒にいる」と言われる真の神を知らせるのだ。神はわたしたちの生きることを助けるために、独り子を送られた、そこに愛があると伝えるのである。苦しみがないことも大事だが、それ以上に、愛されることは人生に欠くことのできないものなのである。

また、罪や悪の誘惑に負けようとするときに、わたしたちが「こういう自分を神がご覧になって、心を痛められるに違いない」と考えて、そうしないように踏みとどまるために、神はわたしたちへの愛のしるしである独り子を見える形で、この世に送られた。

死を迎えようとするとき、何の希望もなくこの世を去っていくのではなくて、わたしたちを愛してくださる神のもとに行くのだ、神のもとに帰って行くのだ、だから恐れることはない、という希望を与えるために、神はイエス・キリストをわたしたちのもとに送られた。この神との結びつきの中で、神のもとに帰って行く命こそ、永遠の命と言われるものである。教会はこれを知らせるのである。神はわたしたち人間を造ってくださった。だから神はわたしたちの生まれるときも、生きるときも、死ぬときも、そして死んだあとも、ずっとわたしたちに関心を寄せ、わたしたちを見つめ、見守ってくださるのである。その確かなしるしが、神が独り子をこの世に送ってくださったあの出来事なのである。

次に「世」について考えてみよう。これは、人間の世界のこと、さらにつきつめて言えば、そこで生きているわたしたち人間のことである、と初めに述べた。そうであれば、この「世」という文字のところに、「わたしたち」という文字を入れて、おきかえて読んでも、意味は同じということになるに違いない。「神は、その独り子をお与えになったほどに、わたしたちを愛された」。17節も同じである。 「神が御子をわたしたちに遣わされたのは、わたしたちを裁くためではなく、御子によってわたしたちが救われるためである」。

「世」とは、自分とは関係のないこの世の人々、自分以外の何か、世間一般ではない。まさに、わたし自身が世である。「一人も滅びないで」(16節)の「一人」とは、まさしく、このわたし自身のことである。全体の中に個が消えてしまうことはないのである。

そうであれば、さらに、この「世」という文字のところに、わたしたちは自分自身の名をおいて考えてもよい、ということになるであろう。皆さんお一人お一人が、「世」という文字のところに、自分の名を入れ替えて読んでみてほしい。

他の人の名前を勝手に用いるのは失礼なので、おこがましいのだが、わたし自身の名前を入れて読んでみたい。「神はその独り子をお与えになったほどに、久野牧を愛された。……神が御子を、久野牧に遣わされたのは、久野牧を裁くためではなく、御子によって久野牧が救われるためである」。

誰の名前でも同じように当てはめて考えることができるのである。一人ひとりと向き合われるのが神の真実である。

このように自分自身の名を入れてここを読むとき、神がとても身近な存在、身近なお方として感じられるのではないだろうか。そのことは、次のような考えにまで到る。

「神が御子キリストをこの世に送られたとき、すでに、神はこのわたしのことも、救いのご計画に入れてくださっていたのだ」。

そういう思いもかけないことが明らかになってくる。これは驚くべきことであり、また信じがたいことである。「わたしなんか…」と、だれもが言いたくなるであろう。しかしこれは、聖書が告げる真実、事実なのである。

神がご自分の民イスラエルに向かって言われた言葉が、旧約聖書のイザヤ書に記されている。43:1 (本日の招詞)

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」。

神は、このわたしの名を呼んで、「わたしはあなたのために独り子を送る」と言ってくださっているのである。神の御子派遣の出来事は、このわたし抜きには起こらなかったのである。神は、わたしたち一人ひとりの名を呼んで、「あなたのためにひとり子イエスを送る。つらい時、淋しい時にはイエスのもとに行け。罪を犯した時には、赦しを求めてイエスのもとに行け。生きることに困難を覚える時には、イエスのもとに行け。そうすれば、必ず、あなたは新しく生きる力と目標が与えられる」、そのようなメッセージがこの句には込められているのだ。

最後に、このように、神さまに愛されているわたしたちは、どのように神にお応えしたら良いのであろうか。このことについて考えてみよう。
尊い独り子をわたしたちのために送ってくださった神に対して、わたしたちは何をささげたらよいのであろうか。何かをささげることができるのであろうか。何をささげたら良いのか分からないわたしたちである。わたしたちは、神さまを喜ばせる大きな宝や物は、何も持ち合わせていないのである。

それではどうすれば良いのであろうか。「わたしたちは、この愛の贈りものを、手でも、足でも捉えることはできない。修道院に入ってもできない。ただ心と信仰をもってのみ捉えることができる」(バルト)。神が御子イエス・キリストにおいてわたしたちに近づいてくださったのだから、わたしたちも自分の存在と心を傾けて、神に近づくのである。それは具体的には、次のようなことである。

  • 自分自身を憎まず、神に愛されている自分であることを知って、自分自身を大切に考えながら生きていくこと。
  • 他の人を憎まず、この人も神によって愛され大切にされているひとりなのだから、ということを知って、共に生きようとすること。
  • わたしたちも神に関心を持ち、神はこのわたしに何を求めておられるか、どのように生きることを欲しておられるかを繰り返し尋ね求めて、示されたことに忠実に生きること。

このようにして、この世界とその中にいるすべての人々が、自分は神に愛されているということを知って、自分自身を重んじるとともに、神に愛されている者同士が、互いを重んじ、愛し合う世界を造りあげようとして、互いの命のために仕え合う、それが神に対するわたしたちの応答である。

困難と労苦の中にある人が、キリストを見つめて励ましや力を得ることが出来るように。悲しみと痛みの中にある人が、キリストに結びつくことによって、喜びや慰めを与えられるように。絶望している人が、神の愛のなかで明るい希望を見出すように。また人生は生きるに値しないと思っている人が、キリストの前で生きることの意味と価値を発見することができるように、と心から願いつつ、互いに仕え合うのである。それが神の愛へのわたしたちの応答である。

今日初めて教会の礼拝に出席された方がおられたら、ぜひこの神の愛を真剣に考えてほしい。すべての人が、そして特に生き悩んでいる人が、キリストによって自分に差し出された神の愛に支えられ、導かれて、新しい出発を始めるものとされることを、心から願う。わたしたちの教会はそのために良き働きを続けていきたいものである。

主日礼拝 2021.10.31(秋季特別伝道礼拝)

開会     10時15分
司会  牧師 久野 牧
前奏   十時 やよい

奏楽
招詞イザヤ書43章1~2節 (旧約 p1130)
讃美歌6  われら主を
祈祷
聖書ヨハネによる福音書3章16~21節
信仰告白使徒信条
讃美歌87B  めぐみのひかりは
説教「神の愛はあなたに向けて」 動画
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌267  かみはわがやぐら
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄544  あまつみたみも
祝祷
後奏

クリスマス賛美礼拝

  • 日 時 12月24日(木)午後6時30分
  • 司 会・メッセージ 牧師 久野 牧
  • 奏 楽 十時 やよい
礼拝順序

前奏
点火

<メシア預言>

聖書     
讃美歌

<受胎告知>

聖書     
讃美歌

<救い主の誕生>

聖書     
讃美歌
-消火・点燈-

<御子礼拝>

聖書     
メッセージ     
祈り
讃美歌

<派遣と祝福>

派遣   (ルカによる福音書2章29~32節によって)
祝福
後奏

佐賀めぐみ教会案内

・主日礼拝 毎 日曜日
・日曜学校 毎 日曜日
 ※子ども(幼稚園から高校生)の礼拝です
・祈祷会
・その他集会

〒840-0841 佐賀市緑小路1-2
TEL・FAX 0952-29-0381
https://saga-megumi-church.org

主日礼拝 2020.10.25 (秋季特別伝道礼拝)

奏楽
招詞レビ記19章13節   (旧約p192)
讃美歌6 われら主をたたえまし
祈祷
聖書マタイによる福音書 20章1~16節
信仰告白使徒信条
讃美歌90 ここもかみの
説教今からでも遅くはない動画
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
祈祷
讃美歌267 かみはわがやぐら
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539 あめつちこぞりて
祝祷
後奏

今からでも遅くはない

動画

マタイによる福音書20章1-16節

牧師 久野 牧

私たちはいろんなことで順番を気にする面を持っている。例えば、
あることに関する情報や噂を誰が最初に手にしたかとか、あることを知ったことが誰よりも後であったことが悔しいといった具合にである。そして自分が先であることが分かったときに、安心感を覚えたり、優越感を抱くことさえあるのだ。

信仰の世界ではどうであろうか。そこでも早いとか遅いとか、ある人よりも先だとか後だとかいうことが大事であったり、問題になったりするのであろうか。それともそのようなことから解放された自由な世界がそこにはあるのであろうか。そうしたことについて、主が語られたたとえ話からご一緒に考えてみたい。今日取り上げるたとえ話はマタイによる福音書20章1-16節の「ぶどう園の労働者のたとえ」である。

これはイスラエルの国においてよく見られるぶどうの収穫時期の忙しさを背景にして語られたものである。ごく普通にみられる光景であるが、しかし特別な面も含んでいる。それは労働者に対する賃金の支払い方法である。つまり朝早くから一日中働いた者に対しても、夕方に雇われてわずか一時間しか働かなかった人に対しても、主人によって同じ額の賃金が支払われているのである。労働時間がそれぞれ異なるのに、皆同じ額が支払われることは、一般には受け入れられない。それでは社会における雇用関係は成り立たなくなってしまうと考える人がいてもおかしくはない。しかしここでは賃金体系がいかにあるべきかが語られているのではない。神とわたしたち人間との関係が語られている。主イエスは、神が私たち人間をどのように取り扱われるかを、たとえによって語ろうとしておられるのである。

たとえの内容に入ろう。ぶどう園の主人は、収穫のために労働者を集めようとして「広場」に出かけて行った。そこは商売をする人が店を開いたりしていたし、自分を雇ってくれる人を待つ労働者たちが大勢いるところでもある。主人がこの広場に最初に出かけたのは夜明けであった。朝の6時頃である。一日の労働に対する賃金として1デナリオンの労働契約を結んでいる。1デナリオンは当時の貨幣単位で、労働者が一日働いた時に手にすることの出来る賃金を表している。さらに主人は午前9時頃、12時頃、午後3時頃にも出かけて労働者を雇っている。これらの人たちとは一日1デナリの賃金の契約はしていないが、「ふさわしい賃金」を払うということで雇っている。ぶどうの収穫時期の忙しさが良く描かれている。

私たちはここで少し立ち止まって夜が明けると同時に出かけていき、その後も繰り返し人をぶどう園に送り込むこの主人は一体誰なのかをということを考えてみたい。1節に「天の国は・・・」と書き始められていることからも分かるように、この主人によって言い表されているお方は端的に言えば神である。私たちの神は、ぶどう園の主人が人を雇うために何度も広場に出かけていくように、私どもの救いのためにご自分から私たちのところに出かけてくださるお方なのである。この神は御子イエス・キリストにおいて私どものもとに来てくださった。御子をとおして私たちを神のぶどう園、すなわち御国へと導き入れてくださるお方としての神である。わたしたちが何かをする前に、神の側から私たちに近づき、私たちをご自身の御用のために働く者としようとしておられるイエス・キリストの父なる神を、この主人を通して見つめることが私たちに求められているのだ。

そうであれば雇われる労働者たちは当然わたしたちのことである。ここで労働者のことが「何もしないで広場に立っている人々」(3)として描かれていることに注目することも重要である。もしかすると今生きている私たちも、真に力と思いを注ぐべきことを見出せないまま「何もせずに立っている」に等しい生き方をしている者たちであるかもしれない。少なくとも神の御目にはそのように映っているに違いない。そのような私たちに神は、「あなたも私のぶどう園で働きなさい」と招いてくださっているのだ。神の救いの御計画の一端を担うものとして働くようにと、時に応じて一人ひとりに呼び掛けてくださっているのである。この神を心に刻み込みたい。

たとえにおいてさらに注目すべきことは、主人が夕方の5時頃になっても出かけていることである。収穫作業は日暮れと共に終わる。残る労働時間はわずか1時間ほどである。主人はその時刻にも広場に立っている者たちに向かって、「なぜ何もしないで一日中ここに立っているのか」と問うておられる。彼らの答えはこうであった。「誰も雇ってくれないのです」。なんという寂しい答えであろうか。彼らを相手にする人がいないというのである。主人は労働終了まで1時間しか残っていないにもかかわらず、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」とぶどう園に送りこんでおられるのだ。ここに主人の憐みに満ちた姿が良く表されている。

夕暮れになっても仕事がなくて立ち尽くしていることは、彼らの責任というよりも、そうした人々を生み出してしまった社会の責任という面が強くあるのではないだろうか。同じ人間として生まれながら、他の人たちから顧みられず、相手にしてもらえない人々が確かにいるのだ。そうした人々をわたしたちは作り出してしまっているのではないだろうか。また他の人々が一日12時間、あるいは9時間、6時間働くことができる中にあって、わずか1時間しか働くことができないという制約を自分の体の中に抱えた人々が事実存在するのだ。それは労働時間の問題だけではなく、命の長さにもあてはまる。肉体的、精神的な病と障がいのために、他の人と比べて極端に短い時間で地上の生涯を終えてしまわなければならない人たちがいるのである。そのことをわたしたちは忘れてはならない。そうしたあとわずかで命ある時が過ぎ去ろうとしている人々の元にも神は近づいてくださって、「あなたたちも私のぶどう園に行きなさい」と招いてくださるのである。主なる神はどの様な人に対しても「あなたが必要なのだ」と言ってくださるのである。神の御子派遣の出来事にはそのような神の思いが込められている。

さてぶどう園の労働者への賃金支払いの時が来た。この賃金支払いの方法こそ、他のどこにおいても見ることの出来ないものである。支払いの順序も特徴的で、最後に雇われた人から先に受け取るというものであった。この事に注目する意味もあるが、今日はそのことには立ち入らない。それ以上に問題なのは、賃金の額である。夕方に雇われた人はわずか1時間の労働で1デナリオンを受け取った。またいろんな時間に雇われた人たちも、労働時間に関係なくみな同じ1デナリオンの賃金であった。早朝から働いた人たちはもっと多くもらえるだろうと期待したのであるが、初めの約束通り、同じ1デナリオンであった。そのことが分かったとき、早朝から一日中働いてきた労働者たちの怒りが爆発したのである。それは当然のことであろう。

しかしぶどう園の主人は賃金の支払いにおいて不正をしたであろうか。主人の側には何の不正もないのである。なぜなら早朝に雇った人たちには一日1デナリと約束し、その通りの支払いがなされているのだから。途中で雇われた人たちも「ふさわしい賃金を払う」との約束のもとで働き、主人がふさわしいと思う額が支払われた。主人はそれぞれの労働者に一日を生きるに必要な額を支払ったのである。「友よ、あなたに不当なことはしていない」との主人の言葉はその通りである。この賃金支払いの方法と内容は、主人の自由な意志に基づくものであり、また愛によるものであった。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と語る主人は、まさしくイエス・キリストにおいて私たちのもとに来てくださった真の神の姿である。

神はこのぶどう園の主人のように、すべての者に対して等しい恵みを用意しておられるお方である。地上における生き方や働きや与えられた環境や能力が異なっていても、神が一人ひとりをご自分の子として捕え、神の国に招こうとしておられることにおいて、すべての人は等しいのである。ある人には力強い働きができるようにと健康な肉体と精神を与えておられる。また、たとえ肉体的・精神的な面での健康ということにおいては恵まれていないとしても、その人々も神の国のために働くことの出来る場が備えられているのである。働きの内容においては異なっていても、共に神のぶどう園での働きを行うということでは変わりはないのだ。それぞれが神の目に尊い存在なのである。

そのようにすべての人をご自身の恵みの中に招いてくださる神を、私たちが知る時期や、その招きに応えて神のために働く時間は、いろんな時間にぶどう園に招かれた労働者がいるように、人によって異なっている。しかしそのことが異なっていても、皆等しく神の国の労働者として神によって用いられるのである。

ある人は幼い時から神を知ることが許されている。またある人は人生の夕暮れ近くに初めて神を知らされることもある。病床で神との出会いが与えられて洗礼へと導かれた後、数日で神のもとに召される人もいるのだ。そうした人にも神は、「あなたにも他の人と同様に支払ってやりたいのだ」と言ってくださる。その人々はそのような神の恵みの約束の中で生涯を全うすることができるのである。神の招きに答えるのに早すぎることも遅すぎることもない。今、神の招きの声を聴くことができるならば、その時がその人にとって神のぶどう園の一員となる時なのである。

トゥルナイゼン(スイスの説教者)のことば 「信仰に生き始めるのに誰も弱すぎるとか、齢をとりすぎているとか、誰よりも遅すぎたというようなことはない。神の目から眺められると、あらゆる時が信仰の目覚めの時、小さな信仰の始まりの時なのだ」。

どうかすべての人が、神の国に招かれていること、神の国の労働者としてのその人なりの働きに召されていることを覚えてほしい。そしてそれを知らされた者のなすべきことは、立ち上がって主なる神への応答に生き始めることである。本日礼拝に初めて出席された方がおられたら、その方に、今神の招きがなされているのである。