「ピラトによる尋問」

マルコによる福音書15章1~5節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ユダヤの最高法院は、主イエスを「死刑にすべきだと決議した」(64)のですが、主の身柄を総督ピラトに引き渡しています。それは最高法院で死刑の判決を下しても、それを執行する権限がなかったからです。最終的には総督ピラトの判決と許可が必要でした。ピラトは当時ユダヤの国を支配していたローマ帝国から遣わされた役人で、ユダヤにおける最高責任者でした。最高法院がピラトに主イエスの罪状として示したのが、「イエスはユダヤ人の王として自称している者」ということでした。そのためピラトは主に対して「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問しています。宗教的な事柄に関する罪状であったならば、彼はあまり関心を示さなかったかも知れません。しかしユダヤを治めることが最大の務めであるピラトにとって、政治的なことは無視することが出来ません。ユダヤに新しい王が現れて、ローマに抵抗するなどということが起これば、大変なことになります。そのためにピラトは、イエスがユダヤの王なのかどうかを第一に問うているのです。しかしその問いはなんとなく緊張感や危機感を伴っていないように感じられます。「このみすぼらしい男がユダヤの王であるはずがない。でも訴えられているので試しに尋ねてみよう」といった程度の嘲りや侮蔑の思いを込めた軽い問いであると言ってよいでしょう。

主はそれに対してどのように答えられたでしょうか。「それは、あなたが言っていることです」が主のお答えでした。これはどういう意味でしょうか。口語訳聖書では「そのとおりである」と訳されていましたので、主は問いかけに肯定的に答えておられると考えられます。しかし今わたしたちが用いている新共同訳聖書の訳はそれとは違って「それはあなたが言っていることです」と多少謎めいた訳になっています。これは少し分かりにくいものですが、問いに対しての否定的な意味合いの強い答えのように響きます。その場合は、人々が主イエスのことを、ローマに抵抗する王であるかのように吹聴している、そしてもしピラトがそれを信じているようならそれは間違っている、という主張になります。主は人々が考え、訴えているような政治的・軍事的王などではないと明言しておられるのです。わたしたちはそのように受け取りましょう。

このような問答を前にしてわたしたちも問われています。つまり、他の人がどのように言おうとも、この「わたし」はナザレのイエスをどういうお方として信じるか、が問われています。その問いに対してわたしたちは自己の存在をかけて、真実に告白しなければなりません。

ピラトはこの裁判をこのあとどう進めて行くのでしょうか。結局彼はこの裁判に決着をつけて主の死刑を決定しました。彼はイエスは無罪だと確信していましたが、主を赦すことによって人々が騒ぎ立てたり、ピラトに反逆したりすることを恐れて、最高法院の決定通りにしました。それによって国家の代表が、神の子を死に引き渡すという大きな罪を犯しています。キリスト教会はそのことを忘れないように、また国家に対する<見張りの務め>と執り成しの祈りを続けるために、使徒信条の中にピラトの名を残しました、「主はポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」と。ピラトの判断は個人的なことにも結び付きます。それはピラトのように人を恐れるのではなく、神を畏れる生こそ、神の前に義とされるということです。