マルコによる福音書14章27~31節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
主イエスと弟子たちは過越の食事を終えた後、オリーブ山に向かいました(26)。そこにはゲツセマネという園があって、そこで祈るためでした。途中で主はいきなり「あなたがたはみなわたしにつまずく」と言われました。主の身にこれから起こる一連の出来事—逮捕、裁判、屈辱、十字架等―が、ますます主の弱さや貧しさや惨めさを際立たせることになる、そしてそれに対して弟子たちはもはや主イエスについて行けないとの思いを持って主から離れて行く、と予告しておられるのです。弟子たちの主に対する信頼と希望はこの後一気にしぼんでしまうということが、主によって告げられています。
しかも主は、それらのことは偶然のことではなく、旧約聖書にも預言されていたこととして、ゼカリヤ書13章7節の言葉を引用しておられます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」がそれです。主は、ご自分の死は神の救いの御計画の中にあることを示しておられるのです。
主の言葉に弟子たちはどのように反応したでしょうか。まずペトロが反応して、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いました。彼は、最後の晩餐の席で主が「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われたとき、「そんなことはいたしません」と言うことができませんでした。しかし今は、はっきりと汚名挽回とばかりに「自分は決して主を裏切らない」と断言しています。しかし主はそれに続いて、さらに具体的にペトロのこれからのつまずきや裏切りの行為を明らかにされます。「今夜、鶏が二度鳴く前に、ペトロは主イエスのことを、三度知らないという」とまで言われました。主は彼の心の内を見通しでした。けれどもペトロは今回は引き下がりません。続けてこう言います。「たとえ主とご一緒に死なねばならなくても、あなたのことを知らないなどとは決して口にしません」。ここまで言って大丈夫だろうかと思わせられるようなペトロの言葉です。
何とペトロの言葉は力強いことでしょうか。何とペトロは頼もしい弟子でしょうか。しかし同時に何と彼の言葉は軽いことでしょうか。彼は自分が口にしていることの意味が分かっているのでしょうか。確かに彼の言葉は、彼の真実の言葉、心から出てくるものであったのでしょう。しかしそれは自分の力の限界を知らない者の無謀な言葉でした。そのような言葉や力は、彼よりも少し強い者に出くわすと、もろくも崩れてしまうのです。わたしたちの弱さの中に、主の力が、そして主ご自身が入って来て下さらなければ、わたしたちはどのような力にも対抗することはできません。主の力がわたしを支えてくださるときにこそ、わたしは強い者とされます。パウロが語る「わたしは弱いときにこそ強い」(コリント二、12:10)との言葉は、主との関係の中での真理です。
主はこのようなつまずくことばかりの弟子たちを冷たく突き放されることはありません。主は「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(28)と言っておられます。そこで弟子たちの再結集が行われるのです。それは裏切る弟子たちへの主の赦しの宣言でもあります。彼らには再出発の時がもう備えられているのです。つまずき多いわたしたちに対しても主は、「礼拝で会おう」と繰り返し言ってくださっています。