「だれが主の味方か」

マルコによる福音書9章38~41節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

弟子の一人ヨハネが12弟子以外の人のことについて、主に次のように報告しています。「主の名を使って悪霊を追い出している人がいたのですが、わたしたちに従わないのでやめさせようとしました」(38節参照)。ヨハネは、人が主イエスの名を使って癒しの業をするのであれば、自分たちと同じように主に従って来るべきだと考えたのでしょう。彼は主から「それでよい」とのお言葉がもらえるものと期待していたかもしれません。しかし主のお答えはそれとは違って意外なものでした。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方である」(39)。このお言葉の中には、ヨハネに対する戒めと、主の名を用いている人への配慮が含まれています。

ヨハネに対する戒めとは、彼の内にある偏狭な排他性や不寛容に対するものです。ヨハネは確かに漁師としてのすべてを捨てて主に従う者となりました。それは尊いことです。しかし現実には、12弟子と同じように何もかも捨てて主に従って行くという形をとれない者たちもいるのです。今はそれぞれの場所に留まって、そこで与えられた賜物を用いて主のために仕えている人たちもいます。ゲラサの地で主によって悪霊を追い出していただいた人は、主に従って行くことを申し出ましたが、主は彼に「家に帰って、身内の人に主の憐みを伝えなさい」(マルコ5:19参照)と命じられました。それはこの人に与えられた主に仕える形です。自分たちだけが主のために働いているとの考え違いをしていたヨハネに対して、主は今その特権意識を戒めて、他の形の服従の道もあることを教えておられるのです。

主はそのように12弟子とは異なる形で主のために働いている人のことを、「わたしの味方」と述べておられます。それは彼らが主の働きに対して妨害者とはならず、実質的には主の協力者として働いていることを寛容に受け入れておられるということです。つまり、彼らにも神からの務めの委託があって彼らはそれを果たしている、と主は受け取っておられるということではないでしょうか。神が彼らをも用いておられるということです。それは彼らに対する信頼と言うよりも、彼らを用いておられる神に対する信頼から出てくる言葉です。さらに主は、彼らは今は彼らなりの仕方で神の御業を果たしているが、やがて時が来るならば、彼らは次の段階に進むであろうという期待をも持っておられるに違いありません。無名の弟子たちにこのあと続いて起こるであろう次なる飛躍を待っておられる主の姿を、そこに見ることができます。そのように主は「主の味方」である人が、いつまでも今の形のままであり続けて良いとは考えておられないのです。彼らもやがて主の十字架と復活に対する信仰をもって、主のために身を捧げるものとなってほしいと願っておられます。

今日においてもキリスト教への良き理解者である「主の味方」、協力者はわたしたちの周囲にいます。その人たちによってわたしたちは間接的に支えられていることを感謝をもって覚えるものです。主はそのような人たちが「主の味方」から真の「主の弟子」になることを待っておられるに違いありません。それはわたしたち自身の祈りでもあります。