マルコによる福音書4章21~25節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
今日の主イエスのお話しは、4章10~12節と同じように、12弟子や主のそば近くにいた人たちに対して語られたものと考えられます。主イエスは格言風、あるいはことわざ的な短いたとえを通して、人は神の言葉といかに向き合うべきかを教えておられます。ここには四つのたとえがありますが、それぞれについて短く考えてみましょう。
第一は「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」というものです。これは、明かりは物陰においてもその本来の役を果たすことはできない、燭台の上においてこそその役割を果たすことができる、という意味です。すなわち、神の言葉である福音は、ひそかに語られるものではなく、高々と掲げられて人々の前に堂々と差し出されなければならない、ということを主は教えておられます。
第二は「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」です。これは本来、何かをどんなに隠蔽しても、いずれはそれは明るみに出るという意味です。これが福音に適用されるとどうなるでしょうか。それは、初めの内は福音の真理はヴェールがかかったもののように覆われていても、必ず人々が理解できるものとして明らかになってくるということです。種まきから実りまで時間がかかるように、み言葉を聞いてから信仰が芽生えるまでも多くの時間が必要である、しかしついには実りの時が来るのだ、という約束が語られているものでもあります。
第三のものは「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられる」というものです。これは本来商売上の戒めで、不正な秤を用いて何かを売った者は、自分が買うときにも同じ不正な秤で買わなければならなくさせられるという戒めです。それは福音に関してはどうなるでしょうか。小さく見積もってしか福音を聞かない者は、小さくしか与えられない、しかし、大きな期待を持ち、白紙のような気持ちで福音に向き合うものは、豊かな恵みと賜物を受けるであろう、という約束が語られているものです。
第四のものは「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」です。これは神の言葉を聞く姿勢を正しく持っている者は豊かに与えられ、逆にヘリくだりや熱心を伴わない傲慢な聞き方をする者は、それ相当のものしか受け取ることができない、という戒めです。
このように四つのたとえはいずれも、正しく聞きなさいという警告と共に、謙虚な思いと熱心を持って神の言葉に耳を傾ける者は、救いの恵みを豊かに受け取ることができるとの祝福の約束を語っています。神の言葉には、神ご自身の存在の重みが伴っています。そうであるならば、それに耳を傾ける私たちも自分の人格を傾けて御言葉と向き合わなければなりません。そうすることができるとき、私たちは御言葉の中に神の命の鼓動を聞き取って、それが私たち自身の命の鼓動となることでしょう。御言葉を共に聞く場へと人々を伴うこと、それが御言葉を正しく聞く者たちの務めです。