「汚れた霊よ、この人から出て行け」

マルコによる福音書1章21〜28節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは、四人の弟子を集められた後、安息日に会堂に入り、神の国について教え、また汚れた霊にとりつかれた人を癒されました。これらのことの中に、主イエスの業の中核にあるものが明らかに示されています。それは、弟子を集めること、教えをすること、そして癒すことです。これらが主イエスの業であることによって、主の後に続く教会も、これらが自分たちの大切な務めであることを認識しなければなりません。

会堂にいる人々は、初めて聞く主イエスの教えに非常に驚きました(22)。なぜでしょうか。その一つは、主の教えが律法学者のようでなかったことです。ただ律法の知識を形式的に語る学者からは、人々は感銘や慰めや希望を受け取ることができませんでした。一方、主イエスの教えには「権威」がありました。権威とは、この世的な権威をもって偉そうに語るということではありません。語られる言葉が、地上のことではなくて、初めて聞く神の国に関することであり、語られる言葉によって人々は、「それでは私たちはいったいどうしたらよいのか」と心が揺さぶられ、自分のこれからの生き方を問わざるを得なくさせられる力あるものだったのです。人々は、主の教えの中に新しい時代の到来と、新しい生き方への招きを強く感じ取ることができました。

さらに、主の言葉に権威があることが目に見える形で表される出来事が起こりました。それは「汚れた霊」にとりつかれている人が、主の一言の言葉によって癒された出来事です。主は大声を上げる男の中に、その人の力ではどうすることもできない霊が宿っていることを見抜かれました。今日の私たちには理解しにくい面がありますが、人の力では制御できない霊的なものによって人が捕らわれることはありうることでした。主はその霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」とお命じになりました。この人を会堂から追い出すのではなくて、この人にとりついている悪しき霊を追い出されるのです。その主の命令によって、とりついていた汚れた霊は男から出ていきました。それはこの人が発作を伴いながらでも、健常な状態に戻ったことによって知ることができます。

主イエスは、神の愛の対象とされている人間の心に宿るべきは、その人を苦しめ混乱させる悪しき霊や汚れた霊ではなく、神の霊であることを、このことによって示してくださっています。主は、悪しき霊が宿っていたこの人の心の座から悪しき霊を追い出し、その空いたところに神の霊を宿らせられたのです。主はこのように、私たちの心の中に神の霊を送り、その人を神の子にふさわしく造り変えてくださいます。このことは安息日の会堂で起こりました。ひとりの人の命の回復がもたらされたのです。それは最初にも触れましたが、今日の教会の主の日の礼拝においても起こりうることです。主が、痛める心を持った人にふさわしく関わってくださるならば、そこに命の癒しと回復が起こります。わたしたちの礼拝はその主の業を妨げるものではなく、それにお仕えするものでなければなりません。