「洗礼者ヨハネとイエス・キリスト」 

マルコによる福音書1章1ー8節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

神の子イエス・キリストが救い主として現れる直前に神から遣わされた預言者が洗礼者ヨハネでした。ヨハネの生活ぶりは、荒れ野に住んで、らくだの毛衣を着たり、いなごと野密を食物としていたと描かれています。その生活ぶりは何を意味しているのでしょうか。一つは、1章3節に預言の言葉が引用され、そこで描かれていた通りの生活をすることによって、ヨハネは自分が神からの最後の預言者であることを示そうとしているということです。

しかし、それ以上に大切なことは、彼が荒れ野での生活を選んだのは、神に集中するためであった、と言って良いでしょう。人々から距離を置いて生きることは、彼にとって辛く寂しいことではなくて、かえって、神により近づくために必要な生き方であったのです。ヨハネはそこから人々に呼び掛けて、人々が決断をもってヨハネのもとにやってくることを願っています。彼は、人を避けた生き方をしながら、人を自分のもとに呼び寄せている、そういう伝道の方法で、人々の救いに仕えました。教会も教会の外に出かけて、人々に神を証しし、救いのありかを指し示すことをしなければなりません。それと同時に、教会に人々が決断をもってやって来て、礼拝に連なることも願い続けなければなりません。出かけること、待つこと、その両面を教会は持っています。

ところでヨハネの洗礼は、新しい命そのものを作り出すものではありませんでした。彼は、人は悔い改めて神のもとに帰り、神からの赦しを得て、救いを自分のものにすることが必要だと呼びかけたのです。そして、自分はそのようなものになりたいとの志を示した者に、水による洗礼を授けて、救い主が来られるまでその決断を失うことがないようにと求めました。これは、主イエス・キリストが与えてくださる洗礼とは異なっています。それを受けるための前準備ができたということを示すもの、それがヨハネによる洗礼です。それは思い切って今日の教会のことで言い表すならば、ヨハネの洗礼は、洗礼準備会が済み小会(長老たちの会議)で試問を受けて、受洗を「承認」された段階のことです。それは洗礼そのものではありません。その人はやがて主の名による洗礼を受けることによって、真の救いと新しい命を獲得することができるのです。

ここでもう一つ考えておきたいことは、「悔い改め」と「反省」とは異なるということです。反省は、あのことが悪かったから、これからは同じ過ちをしないようにしようという心の状態をいいます。一方、悔い改めは、その言葉の本来の意味が<方向転換>を意味しているように、生きる方向を根本的に変えることです。神から離れる方向に生きていたものが、神に向かう方向に生き方の向きを変えることです。それは「神に帰る」ことです。私たちの教会は、神に背を向けて生きている多くの人たちに、神に向かって生き方の方向を変えようと呼びかけなければなりません。神は、人がご自身のもとに帰ってくることを喜ばれるお方なのです。そのために、教会はこの地上に建てられています。