「復活の主との静かな朝食」

ヨハネによる福音書21章9-14節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

ガリラヤ湖畔の岸辺には、復活の主イエスが漁から帰って来る弟子たちのために朝食を用意してくださっていました。そこにはパンと、炭火の上に魚が用意されていました。さらに弟子たちが主の命令によって網を打って獲った魚の中から何匹が炭火の上で焼かれました。主はパンと魚を手ずからとって弟子たちに分け与えられました。その朝食の間、弟子たちは誰も主イエスに向かって「あなたはどなたですか」とあらためて尋ねる者はいませんでした。自分たちに網を打つことを命じられた方、そして朝食を用意してくださった方がどなたであるかは、弟子たちは既に分かっていたのです。弟子たちは静かに、そして主と共にいることの幸いをかみしめながら、平安の内に食事を進めて行きました。

弟子たちが主の命令によって舟の右側に網を打って獲った魚が153匹であった、と記されています。この数字は何を表しているのでしょうか。単純にその時の事実を知らせているものと考えることもできます。しかし実際はこの数字については、歴史的にさまざまな解釈があり、いろいろな説明がなされてきました。それぞれが意味があり興味あるものですが、そのすべてを学ぶのではなくて、ここでは一つのことだけをご一緒に考えてみましょう。

それは153という数字は、主イエスが生きておられた時代に知られていた魚の全種類を表しているものであろう、という解釈です。あるいはその当時、ガリラヤ湖で獲れる魚の種類が153匹であったのであろう、という理解がなされることもあります。正確なことはわたしたちには分かりませんが、もしそのように153によってすべての種類の魚のことが意味されているのでしたら、それによってヨハネ福音書は何を語ろうとしているのであろうかを知る必要があります。

それは、それだけ多くの魚が網にかかったことを通して、人間を獲る漁師としての働きをこれから本格的に始めようとしている弟子たちの働きの収穫や目標や、さらには祝福が示されている、と考えることが出来ます。それを示すことによって、主は弟子たちを励ましておられるのです。主は「あなたがたは漁で最初は魚が一匹も獲れなかった。そのように御言葉の種まきにおいても、収穫が全く得られないこともあるであろう。しかし諦めることなく、み言葉の種を蒔き続ける限り、必ず収穫はある。それゆえ、全国民、そしてすべての民族に対してのみ言葉の種まきの働きを、粘り強く続けなさい」、との希望の励ましを与えておられるのです。

さらに弟子たちはこの朝食において主がパンと魚を取って弟子たちに分け与えられたことを通して、同じようにふるまわれたあの最後の晩餐のことを思い出したことでしょう。「あのとき主はまだ生きておられた、しかしその主は十字架の上で死なれた、けれども今こうしてよみがえられて自分たちの前におられる、これは真実だ」という確信が彼らの中に固められて行ったに違いありません。

主イエスを裏切り、主のもとから逃げ去り、十字架の場面でも葬りの時にも立ち会うことをせず、力なくガリラヤに戻って来た弟子たちですが、そのような彼らの前に復活の主が来て、平安を与えてくださっています。弟子たちはこの主がいつも共にいてくださるとの確信の中で、宣教の業に仕える者となっていくことでしょう。わたしたちも主のみ言葉に耳を傾ける礼拝と、主の復活の命に与る聖餐の交わりを通して、主がわたしたちといつも共にいてくださるとの確信をいよいよ強くして、主のご委託にお応えする歩みを続けていきたいものです。