「舟の右側に網を打て」

ヨハネによる福音書21章1-8節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

復活された主イエス・キリストが、三度目に弟子たちの前に姿を現されたのは、ティベリアス湖(ガリラヤ湖)の湖畔でした。そこで主にお会いしたのはペトロを初めとする七人の弟子たちでした。彼らはガリラヤ湖でかつて漁師をしていた人たちやガリラヤ出身の人たちでした。彼らは今故郷に帰ってきていますが、何をしてよいのか分からない状態の中で日々を過ごしていたのかも知れません。あるとき、ペトロの「わたしは漁に行く」というひと声で、他の弟子たちも一緒に漁に出かけました。弟子たちの中には、かつて漁を生業としていた者たちもいました。

しかしその夜は何も獲れないまま帰ってきました。そのとき、湖の岸辺に立っているひとりの人が、彼らに声をかけました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6)。不思議なことに、弟子たちはその言葉に何の疑いも持たずに従って、舟の右側に網を打ちました。その結果、網を引き上げることが出来ないほどの大量の魚が獲れたのです。

この岸辺に立って弟子たちに命じた人が誰であるかに最初に気が付いたのは、「イエスの愛しておられたあの弟子」(7)、すなわちヨハネでした。彼はペトロに「主だ」と声をかけると、ペトロもすぐにそれに気が付いて湖に飛び込んで岸辺へと泳いでいきました。その後他の弟子たちも岸辺に上がり、主が備えてくださっていた朝の食事を共にとりました。これについては来週、ご一緒に考えます。

これはとても不思議な出来事ですが、このことからわたしたちが教えられることはいくつもあります。一つのことは、信仰の成長ということです。弟子たちはそれまで二度にわたって復活の主イエスとの出会いの時が与えられました(20章19節以下と20章26節以下)。しかしまだ主イエスの復活を信じる確信が固まっていないまま、主の派遣命令にも応ぜずに、ガリラヤに戻っています。そのように信仰はあるとき一気に強固なものになったり、少しも揺るがない状態になったりすることもありますが、そうではなくて、信仰は高まったり弱ったりの一進一退を繰り返すものでもあることを教えられます。それにもかかわらず、その歩みは、主の力によってゆるやかな勾配でありながら、少しずつ御心近くへと向かうことが出来るのです。弟子たちはこの出会いの後、しばらくして大きな飛躍をすることになります。

第二のことは、そのように迷いつつ歩く弟子たちを、主がいつも見続けてくださっているという事実です。このことは深い感動をもって覚えさせられます。「ガリラヤで会おう」と弟子たちに約束されたとおりに、復活の主はガリラヤに来られました。そして静かに弟子たちの動きを見ておられました主は、魚が獲れずに落胆している彼らに声をかけて、大漁へと導いてくださいました。弟子たちが気が付いていない時にも(4節「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」)、主は弟子たちに慈しみの眼差しを向けてくださり、ふさわしい助けの手を伸ばしてくださっています。弟子たちは不確かでも、主はいつも確かであられます。

これらのことは、今ここで信仰者としての歩みをなしているわたしたちに対しても同じです。復活の主は、わたしたちの人生の戦場において、また信仰の苦闘の場において、いつもそば近くにいて、わたしたちを見守り、助け、なすべき業を示してくださっています。主に祈りつつ、心の目を向け、心の耳を傾けるとき、きっと「舟の右側に網を打て」という声が聞こえたり、「これは主だ」というほかない主の御業に気づかされることがあるに違いありません。