「主イエスの墓への葬り」

マルコによる福音書15章42-47節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

本日のテキストには、特別なかたちの葬りが記されています。その特別さとは、第一に十字架上で処刑された人の葬りであるということです。第二は、身内の者がだれ一人として連なっていない葬りであるということです。それは、わたしたちの救い主イエス・キリストの葬りです。主イエスは金曜日の朝9時頃に十字架につけられました(25)。そしてその日の午後3時頃に息を引き取られました(34、37)。安息日が始まる午後6時頃の日没まで残された時間はあまりありません。このまま放っておくと、安息日の一日は何もすることが出来ず、主イエスの遺体は一日中、十字架上でさらしものになったままです。十字架のもとにいた女性たちは、どうしたら良いのかわからないまま思い悩んでいたかも知れません。

そのときひとりの人が現れて、主イエスの遺体を十字架から降ろさせてほしいと総督ピラトに願い出たのです。その人はアリマタヤ出身のヨセフという人でした。彼について聖書は多くを語っていませんが、まとめてみると次のような人物像が浮かび上がってきます。彼はエルサレム議会の身分の高い議員であり(43)、金持ちでした(マタイ27:57)。またイエスを死刑にするという議会の判決に対しては、同意していませんでした(ルカ23:51)。彼は「神の国を待ち望んでいた」(43)のですが、その思いを勇気を出して主イエスに告白することが出来ないまま、主の死を迎えてしまいました。しかし、今彼は「勇気を出して」(43)、ピラトに主イエスの遺体を引き渡してほしいと願い出たのです。誰も考えなかったことが今起こっています。ピラトはヨセフの願い出を聞き入れ、主の遺体をヨセフに「下げ渡した」のです(45)。ヨセフは主の遺体を白い亜麻布で巻いて、「自分の新しい墓」(マタイ27:60)に納めました。十字架の主を見たあの百人隊長は「この人は神の子だった」との信仰へと導かれ、今は、ヨセフが主の遺体を引き取り、葬るという勇気を与えられました。

ある人はヨセフは勇気を出すのが遅すぎた、と言います。エルサレム議会での裁判の時にこそ彼は勇気を出すべきだったと言うのです。しかしそうすることが出来なかった彼を誰が責めることができるでしょうか。今こそ、勇気を出すべき時が彼に来たのです。主は彼の勇気によって墓に葬られました。使徒信条の「(死んで)葬られ」の背後にヨセフの勇気があったことをわたしたちは忘れてはなりません。わたしたちにもこの勇気が求められることがあるのです。主はこのように遅くしか立ち上がることが出来なかった者を、どのようにご覧になるのでしょうか。「遅い」と言って責められるでしょうか。そういうことはありません。主の前における決断に遅すぎることはないのです。「立ち上がれ」との御声が響いてきたその時こそ、その人にとっての主に従う時が来たのです。わたしたちにとっても「勇気を出す」機会はこれまでもあったでしょうし、きっとこれからもあるに違いありません。

主の遺体を納めた墓の前には二人の婦人がいました。マグダラのマリアとヨセの母マリアです。彼女たちは愛する主イエスを失った悲しみに包まれているのですが、同時に安息日が明けたらいち早くこの墓に来て、主の遺体に香料を塗ろうと考えていたのです。今彼女たちが行うことが出来るのは、それだけでした。しかしそうした絶望の中にある彼女たちでしたが、誰よりも先に主の復活の出来事に出会い、復活の証人とされたのです。主への愛に生きる者には、その人にふさわしい務めが主から与えられることを教えられます。