「主イエスへの死刑判決」

マルコによる福音書14章53~65節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスに対する裁判が進められていますが、議員たちから決め手となる証言が得られないでいます。そこで裁判長である大祭司が自ら主イエスに尋問しています。それは「お前はほむべき方の子、メシアなのか」というものでした。「ほむべき方」というのは、天の父なる神のことであり、「メシア」とは旧約聖書の時代からユダヤの人々が待ち望んでいた救い主のことです。大祭司は、無言を貫いて来た主イエスであっても、この問いには答えざるを得ないに違いないという思いを込めて尋問しています。その問いは信じようとする思いから出たものではなく、嘲りや罠が秘められているものでした。

この尋問に対して主は初めて口を開かれます。これは主にとって沈黙することを許されない問いであり、またすべての人が主ご自身からその答え聞くべき主の自己宣言を求める問いかけです。主はその問いを避けられません。次のように答えられました。「そうです」(62)。口語訳聖書では、「わたしがそれである」と訳されていました。大祭司の問いかけをそのまま肯定しておられるのです。そこには一点の曇りもありません。それにつ付け加えて主は、旧約聖書ダニエル書7章における終わりのときの「人の子」の来臨の預言を引用して、ご自身においてそれが成就している、とも告げておられます。この「人の子」の来臨の預言も、ユダヤの人々にとってはよく知られていたもので、彼らが待ち望んでいたことでした。主はそれによっても自己を宣言しておられます。

主イエスに「あなたは神の子ですか」と問い、「メシアですか」と問う者は、「そうである」との答えが主から返ってきたとき、それに従う者でなければなりません。主に問う者は、与えられる主からの答えに沿った生き方をするとの決断をもって問わなければなりません。いい加減な問いと応答は、主の前では許されないのです。

大祭司はどうしたでしょうか。彼は主イエスの答えを、主イエスが何者であるかを示す決定的な証言としては受け取らずに、逆に決定的な神に対する冒涜の言葉として受け取りました(64)。そしてこれ以上の証言を議員たちに求めず、主に対する判決のみを問いました。そして議員たちの一斉の「死刑だ」との叫びによって、主イエスに対して死刑の判決が下されたのです。大祭司の狙い通りの筋書きでした。その後人々は、主をなぶりものにしました。神を冒涜することが死に値するのであれば、今、神の子イエスを辱めている人々もそれによって神を冒涜していることになるのですから、彼らも死に値するものとなるということです。しかし悲しいことに、彼らはそのことに全く気が付いていません。人間の罪の闇の深さを思わされます。そのような罪人たちのために、主はその罪を負って十字架につけられるのです。

わたしたちは、不当な裁判の席においてではありますが、主の口から、ご自身が何者であるかの証言の言葉を聞くことが許されました。わたしたちにとっても主イエスに関してこれ以上の証言は必要はありません。あとは、それを聞いたわたしたちの応答が求められるだけです。「立て、行こう」の応答のみがふさわしいものであることを思わされます。