マルコによる福音書14章53~65節(その1)
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
主イエスは捕らえられて大祭司カイアファの屋敷に連れて行かれました。そこで主に対する裁判が行われるのです。この場面を二回に分けて学びましょう。今、人間が神の子を裁くことがなされようとしています。果たしてそのようなことが可能なのでしょうか。裁きにおいては正義や公正の感覚、法や人間に対する正しい理解、そして何よりも裁く者自身が限界を持ったものであるとの認識による謙虚さや、絶対的な存在者に対する畏れが必要です。今主イエスを裁こうとしている人々にそれはあるのでしょうか。
主イエスの裁判を行おうとしている人々は、どういう人たちでしょうか。祭司長、長老、律法学者、そして裁判長の役割を持った大祭司など、エルサレムの70人議会を構成する最高法院の面々の名が挙げられています。この裁判は、大祭司の屋敷で密かに行われています。彼らがその裁判を急いでいることがそのことに表されています。しかも、先に「イエスは死刑」という判決が出されているに等しい裁判が、形式的に行われているのです。
その屋敷の中庭に、弟子ペトロが忍び込んでいました。主が捕らえられた時いったん逃げ去った(50節参照)彼が、再び主の近くに戻って来ています。「わたしはつまずきません」と豪語したその言葉にいくらかでも忠実であろうとしているのかも知れません。彼は主の裁判においては何の力も発揮することはできませんが、弱さを抱えながらでも何とか主への服従の道を探っているペトロの姿に、心打たれるものを感じる人もいることでしょう。
裁判では、「死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」(55)と記されているとおり、結論が先にある裁判において、その結論に合致する証言を、聖書の定め通りに(申命記19:15))二人以上の者から求めたのです。しかしそれはうまく行きませんでした。このことは、神の子を罪ある人間が裁くことの無謀さや限界とともに、判決が先に出された裁判が神の前に通用しないということを明らかにしています。しかし、彼らはついに力ずくで、この裁判の判決を自分たちが考えているとおりに出してしまうのです。そのことについては来週ご一緒に考えます。
ところで、わたしたちは今日を生きるキリスト者として、主イエスを証言する責任と務めを負っています。「イエスは主なり」、「主はよみがえられた」と証言し告白することが、偽りの多いこの社会という法廷でわたしたちに求められています。それぞれのキリスト者が懸命にその務めを果たそうとしています。しかしもし、そのようなキリスト者の証言が、互に食い違ったものであるならば、人々は混乱してしまうでしょう。それは力にはなりません。そういうことが起こらないように、わたしたちの信仰告白や証しの言葉は、繰り返し生けるみ言葉に触れることによって、真実なものとされなければなりません。それは、霊の戦いをするためには礼拝に連なることによって「神の武具」(エフェソ6:11、13)を身に着けて、整えられることが必要だということです。この世の支配と権威とに対抗できるものは、生ける神の言葉と聖霊の力しかありません。