マルコによる福音書14章43~52節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
ゲツセマネでの祈りを終えられた主イエスを待ち受けていたのは、主の敵対者たちでした。彼らはエルサレムの権威者たちから送り込りこまれた「武装集団」でした。しかもその先頭に十二弟子の一人であるイスカリオテのユダがいて、彼らを率いています。
ユダはここでもなお「十二人の一人」と言われています。それはどういうことでしょうか。二つのことを考えることができます。その一つは、この時点でもなお彼に対する主の愛は消えていないことが示唆されている、ということです。主の愛に応えることができず、逆に主に敵意をいだいてしまったユダですが、しかし彼に対する主の愛は冷めてはいません。ユダは今も主によって選ばれた十二人の一人なのです。そのことがこの表現に反映されています。
もう一つの点は、十二弟子の一人であるユダが主を裏切ってしまったことは、他の弟子たちも同じ過ちを犯す可能性を持った者たちであるということが暗示されています。主は先に「あなたがたは皆、わたしにつまずく」(14:2)と言われました。ユダは特別に罪深い人間ではなく、他の弟子たちも「同じ穴のむじな」です。わたしたちも同じです。ということは、わたしたちも罪深さの中で、消えることのない愛を主から受けているということになります。
さてユダは主を捕らえようとしている人々とあらかじめ一つの打ち合わせをしていました。それは彼が接吻する相手が主イエスだ、という合図です。ユダは主に近寄って「先生」と言い、接吻をしました。「先生」という呼びかけも、接吻も、親しい者の間で交わされる日常的な挨拶です。ユダの裏切り行為は、特別な行動を通してではなく、日常の振る舞いを通してなされました。主を裏切るということは、主を敵対者に「引き渡す」ことです。日常の行いの中で、主を引き渡すことがなされています。そのような行為は、もしかするとわたしたちも、無意識の内に日常的に行っているかも知れません。一瞬の脇見運転が大事故につながることがあるように、わたしたちが主から目や心を離したときに、信仰における重大な事故が起こり得るのです。そのように主から離れることもある目と心を主の方へと引き戻すために、主の日の礼拝がわたしたちに備えられています。それは主なる神の大いなる憐れみのしるしです。
ところで、主が捕らえられるのを阻もうとして、おそらく弟子の中の一人が剣を抜いて敵に向かうということも起こっています。しかし彼も最終的には、他の弟子たちと共に主のもとから逃げています。彼の勇気は偽物でした。
主はそういう中で、「これは聖書の言葉が成就するためである」と言われて、敵から逃げることもなさらずに、捕らえられました。この主の言葉は、言い換えれば、「聖書の言葉は成就されねばならない」(口語訳)となります。つまり、主はご自身の十字架を、神の御心に従うこと、神の救いのご計画の実現のために避けてはならないこととして受け止めておられることを表しています。「主はユダの中に敵意を見ず、かえって父なる神の命令を見ておられる」(パスカル)ということです。この敬虔なお姿は、あのゲツセマネの祈りを通して御子イエスに与えられたものでした。祈りは御心を知るときであり、また神との結びつきが強められるときでもあることを強く教えられます。