「ユダの裏切りの予告」

マルコによる福音書14章10~21節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

過越の食事は主イエスが弟子たちと共に囲まれる最後の食事です。弟子たちはまだそのことに気が付いていません。その席で主はいきなりこう言われました。「あなたがたの内の一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18)。それを聞いた弟子たちはそれぞれに「まさかわたしのことでは」と言っています。彼らの反応は「まさかわたしたちの中にそんな者がいるはずはありません」ではありませんでした。逆に、「それはもしかしたらわたしかもしれない」、という反応でした。

これはどういうことでしょうか。それは弟子たち皆が、主を裏切る者となるユダと同じような心を持っていたということを表しています。ユダの心は、先週も考えましたが、次のようなものでした。すなわち、ユダにとって主イエスは自分が持っているメシア(救い主)像から遠く離れたものであることが分かってきました。彼にとって主イエスは自分の命や存在をかけて従って行く価値のあるものではなくなっていたのです。つまり彼にとって不用なものとなりました。そのためユダは主に従う思いが失せて、少しでも自分の益になるために金と引き換えに、主を敵対者に引き渡す行為に走ったのです。

ユダは何を間違ったのでしょうか。それはユダはいつの間にか主の上に立つ者となって、主を裁いているということです。自分の判断が規準となっています。彼は主に「主よ、わたしはあなたのことが分からなくなりました。どうしたらよいのでしょうか」と問うべきでした。しかしそうはせずに、ユダは自分自身に「どうしようか」と問うています。そして自ら出した結論が、主を捨てるということでした。ユダが主を裁いているのです。他の弟子たちにもそれと同じような心があったに違いありません。それゆえに彼らの心は、主の言葉を聞いて騒いでいるのです。「心を痛めた」(19)のも、裏切られる主に対してではなくて、自分や仲間がもしかすると裏切る者となるかもしれないということに対してでした。彼らの心は主の悲しみから遠く離れた所にあります。

そのことはここにいるわたしたち自身にも当てはまります。わたしたちも「主よ、まさかわたしのことでは」と言いかねない者たちです。わたしたちも弟子たちと同じような弱さと不信仰とを抱え持った者たちです。ユダはわたしたちと関係のない人物ではありません。わたしたちはいつでも「ユダ」になり得るものであることを弁えていなければなりません。主に対して歪みそうなそうした心が正されるのが、主が備えてくださった聖晩餐においてです。

主が裏切る者について語られた「生まれなかった方が、その者のためによかった」(21)との言葉は、わたしたちの心を鋭くえぐります。しかしこれは呪いの言葉ではありません。主の苦しみと悲しみの中からのユダに対する悔い改めを促す言葉なのです。主はユダに「わたしのもとに帰って来い」と呼びかけておられます。ぎりぎりまで待たれる主の姿がそこにあります。けれどもユダはそれによって心を変えることはありませんでした。そのユダも過越の食事になお加えられていることは、なんという主イエスの憐みの大きさでしょうか。その憐みの中でわたしたちも生かされているのです。