「大きな苦難の予告」

マルコによる福音書13章14~27節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

黙示書を学ぶ上で大切なことが二つあります。その一つは、主イエスが終わりの時のことを教えておられた当時の人々は、終末がすぐにでも来るという緊迫した思いでこれに耳を傾けていたということです。それだけに、彼らは聞くことに真剣でした。二つ目のことは、今日のわたしたちにとっては、「いつ」、「どんなふうに」その時がくるのかに関心を持つことよりも、その時が必ず来るとの思いの中で、それに備えるために今の時をどのように生きることが神の御心に適っているかを、真剣に問いつつ生きることです。

さて14~23節には、特別な事態が生じた時のことが記されています。そこで言及されている「憎むべき破壊者」とは、紀元前170年頃にエルサレムに侵入してユダヤ人たちに異教の神を拝むように強制したシリアの王アンティオコス・エピファネスのことです。それはユダヤ人にとってはとてもつらい厳しい出来事でした。主はその恐るべき歴史的事件を思い起こさせながら、これから先も同じ事が起こりうると予告しておられます。そのときには「戦え」と主は信仰者に命じておられません。むしろ「逃げよ」と命じておられます。なぜなのでしょうか。それは組織的・国家的な巨大な敵の力と戦うよりも、それから逃げることによって、とりあえず信仰を守れということなのです。主は信仰者の弱さや限界をご存じです。それを超えて戦えとは言われないのです。

さらに大切なことは、主ご自身がわたしたちに代わって戦ってくださるとの約束がここにあるということです。「この戦いをわたしに任せよ」、と主は言ってくださっています。この苦難が長引くことによって信仰から脱落するものが出ないように、主ご自身が戦ってくださって「その期間を縮めてくださる」のです。わたしたちはそれゆえに逃げながらでも、「祈りなさい」(18)と命じられています。信仰からの脱落者が出ないように、また教会と自分自身の信仰が守られるように祈らなければなりません。

わたしたちの国においてもかつて天皇への崇敬がすべての人々に求められ、キリスト教会もその圧力に屈することがありました。そのようなことが二度と起こらないとは誰も言えないのです。今日の教会は、国家に対する<見張りの務め>を果たしつつ、信じることの自由のために仕えなければなりません。

24節以下においては、「人の子」が登場します。主はダニエル書7章13節の「人の子」をそのまま用いて、ご自身の再臨の時のことについて語っておられます。そして主が再び来られた時には、「選ばれた人たち」(27)を神のもとに集めてくださると語られています。父なる神を信じる信仰者は、自分で神を選んだのではなくて、神によって選ばれた者たちです(ヨハネ15:16)。信仰の主体は神にあります。それゆえ神はご自身が選ばれた人々を、信仰のゆえの苦難や迫害において守り通してくださり、終わりの時にもれなくご自身のもとに呼び集めてくださいます。神の選びの力と愛は、わたしたちを神から引き離そうとする如何なる力よりもはるかに大きいのです。それがわたしたちの確信であり、平安の源です。その確信と平安のもとで日々を誠実に生きることが、終末に備えた生き方であると言ってよいでしょう。