「最後まで耐え忍ぶ者」

マルコによる福音書13章9~13節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは終末のことについて弟子たちに教えておられます。その中で今は、弟子たちに限らず信仰者として生きる者たちに加えられる苦難や迫害について語っておられます。主が繰り返し「わたしのために」とか「わたしの名のために」と述べておられることからも分かりますように、キリストに従う者はそのキリストへの信仰ゆえに苦しみを避けることはできないのです。主ご自身が苦しみに遭われたように、信仰者も苦しみに遭います。

そのような苦しみや信仰者への弾圧には三つの種類があることを主は語っておられます。それは何でしょうか。

第一に「地方法院」とか「会堂」(9)での裁きや罰が挙げられています。それは宗教的な面からの弾圧で、何を神として信じているかということが厳しく問われるのです。パウロもその信仰のゆえにユダヤ人から受けた鞭打ちの刑について述べています(コリント二、11:24~25)。

第二は、「総督や王の前」(9)での裁きが挙げられています。総督はローマの権力者、王はイスラエルの国の権力者ですから、彼らの「前」とは、政治的権力あるいは国家的権力がむき出しにされる場であると言えます。そこではキリスト信仰者が国家にとって危険な存在であるかどうかが問われます。

そして第三は、「親、兄弟」(12)による迫害です。家族関係の中であるいは肉親同士の間で、キリストへの信仰が激しくとがめられることがあるのです。

キリストへの信仰を貫こうとするとき、以前と現れ方は違っても、今日のキリスト者にも同じように迫害や弾圧は起こり得ます。このことはわたしたちと関係のないことではありません。なぜそれを避けることができないのでしょうか。主はこう言われます。「まず、福音があらゆる民に伝えられねばならない」(10)。み言葉は伝道者による宣教活動によってのみ、人々の前に差し出されるのではありません。それぞれの時代の信仰者の苦しみや戦いという手段を通してでも福音は証しされ、信仰者の信じる神がいかなるお方であるかということが広く明らかにされます。それは神の宣教の一つの手段です。

しかしわたしたちはそのような苦しみに耐えられるのでしょうか。裁きの座で、わたしたちの主であるイエス・キリストを正しく証言することができるのでしょうか。自信はありません。しかし主は言われます。何を言おうか、どう振舞おうかと「取り越し苦労をしてはならない」(11)。なぜならそのようなときに聖霊なる神が信仰者を助け、言葉と勇気を与えてくださるのだからと断言しておられます。聖霊は「弁護者」とも言われ、また「慰め主」とも言われる方です。その意味は、「かたわらにいてくださる方」ということです。

このことは何も裁判とか弾圧の場面だけのことではありません。あらゆるときに聖霊なる神はわたしたちのかたわらにいてくださり、わたしたちを助けてくださるのです。なんと慰めに満ちたことでしょうか。だからこそわたしたちは困難と艱難の只中においてだけでなく、さらに地上の生が終わる最後まで耐え忍ぶ者とされるのです。聖霊なる神がそうしてくださいます。それゆえわたしたちは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13)との言葉を自分自身への神の約束として聞くことが許されているのです。