「真の命に至る道」

マルコによる福音書9章42~50節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスは「小さい者」への愛をこれまで何度か説いてこられました。今日のテキストの冒頭でも、小さい者をつまずかせることに対する厳しい裁きの言葉を語っておられます。「つまずかせる」とはどういうことでしょうか。この語の本来の意味は、人の歩く道に石などを置いて歩く邪魔をする、妨害をすると言ったことです。これが信仰の世界において用いられると、自分の言葉や行いによって、信仰に生きる人の確信や主への信頼を揺るがして、主から切り離すことなどを指すことになります。意図的にあるいは無意識の内に、わたしたちはそのような言動をしてしまいがちです。それに対して主は今、それらの人は「海に投げ込まれる方がよい」と厳しい警告を発しておられます。なぜこれほど厳しい言葉が発せられるのでしょうか。

それは信仰に生きようとしている人たちは、次のような人たちだからです。「この兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(コリント一、8:11)。すなわちそれらの人々は御子の命が十字架に捧げられることによって、神のもとに取り戻された人たちなのです。そのように主の愛が注がれた人たちを、わたしたちは自分の軽率なあるいは悪意に満ちた言動によって主から切り離してはならないのです。そのことの重大さを示すために主は厳しい裁きを語っておられます。主はまたその言葉によって、つまずかせる人を滅ぼそうとしておられるのではなく、他者との間に生かし合う命の関係を築き上げるようにと促してもおられます。

さらに主は自分自身をつまずかせることについても語っておられます。自分の手や足や目が自分自身をつまずかせるというのは分かりにくいことですが、要するに自分の内面から生じてくるキリストへの背反や罪への誘いに気が付いた時は、それに勝利するための真剣な闘いを挑めということでしょう。肉体の病でしたら、病んでいる部分を切除することによって、健康が回復したり命が保たれたりすることがあります。その場合、切除の痛みに耐えなければなりません。それでは自分自身をキリストから切り離そうとする罪という霊的な病の場合はどうすればよいのでしょうか。それは比喩的に言われている手とか足とか目の実際の切除によってなされるものではなくて、真剣な祈りを伴いつつなされる敵対するものとの血を流すほどの闘いによって、それに打ち勝とうとすることです。そうすることによって人は「命にあずかる」すなわち真の命を得ることや、「神の国に入る」ことができるものとされます。戦わずしてわたしたちは御国の一員としてあり続けることはできないのです。

主は最後に「自分自身の内に塩を持ちなさい」と教えておられます。金属の鉱石が火によって精錬され、純度を高めていくように、わたしたちも試練や霊的な闘いを通して、邪悪なものや不信仰なものを取り除かれて、神の国の一員にふさわしいものとされて行きます。そのよう中で与えられるものが「塩」です。それは神からの賜物です。福音を聴くこと、それに従って生きることによって与えられたその塩味をわたしたちはきょうだいたちの信仰のために、彼らの慰めや励ましのために、さらに教会の形成のために用いることが求められています。そうすることは「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4:6)とのパウロの教訓に通じるものです。