「命を救うことと失うこと」

マルコによる福音書8章34~9章1節(その2)

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

先に8章34節を中心に御言葉を聞きましたが、35節以下のみ言葉にも耳を傾けてみましょう。主は、ここで命には二つのものがあると言っておられます。用語はどちらも同じですので、見分けがつきにくいかもしれませんが、前後の関係から区別ができます。その一つは、地上に属する命、生物学的な命です。わたしたちが普通に命と言っているものです。もう一つは、神の国に属する命、永遠の命です。主は今、この二つの命について語っておられます。
35節に「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」とあります。自分の力だけで自分の命を守ろうとする者、自分の益のためにのみ生きようとする者は、結局、「それを失う」、つまり神の国に属する命を手にし損ねるということです。その人の地上の命の終わりが、すべての終わりということになります。

一方地上の命を失っても天に属する命を得ることができるのは、「主のため、また福音のために命を失う者」です。その人たちは地上の命を失っても、命を救うことができる、即ち、天における新しい命を約束される者となるということです。それは具体的にはいかなる生き方を指しているのでしょうか。先に「自分の十字架を背負って主に從え」と主は命じられました。この生き方こそが、主が言われる「主のために自分の命を失う」生き方であり、それがすべての人が手にすべき本来の命を手にすることができる唯一の道であるということです。これは、人が勝手に考え出した命についての教えではなくて、主なる神が約束してくださっていることです。わたしたちはそれを信じます。

現実はどうでしょうか。36~37節の主の言葉を聞くときに、わたしたちの多くは自分の命を失う生き方をしているのだということを思わせられます。「全世界を手に入れる」とは、自分の力だけで自分の命を守り、地上のあらゆる良きもの、それは物であったり、金銭であったり、人からの賞賛であったりしますが、それらで身を固めれば安心だという生き方のことです。それはだれか特定の少数者のことではなく、わたしたちの多くが何らかの形でそのような生き方を志向していると言わざるを得ないものです。そして死ぬときにこの生き方は間違っていたことに気が付き、すべてを差し出して天における命を手に入れようとしても、その代価は高すぎて、手にすることはできないと主は語っておられます。天における命は、神から与えられるものですから、地上の富などで買い取ることはできないのです。詩編には次のように記されています。

49編9節「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」。

ここでの「魂」は、天における命と考えて良いものです。

天地が滅んでもなお続く命、たとえ死んでも新たに生きる命、これは非科学的ですが、しかし、主イエス・キリストの死からの蘇りによって、その存在が明らかにされました。自分を捨て、自分の十字架を背負って死に至られた主は、地上の命は失われましたが、神によって天における命を与えられました。その主がわたしたちに今、真の命に至る道を指し示してくださっているのです。わたしたちもこの道を歩むようにと招いておられます。何を失っても、キリストの中にのみ新しい命を見ることができる信仰が、いよいよ確かなものとなるように祈りつつ、この道を歩みを続けていきましょう。