「人を汚すもの」

マルコによる福音書7章14~23節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

主イエスはファリサイ派の人々との清めを巡る問題から、さらにユダヤ人の間に巣食っている汚れの問題に話を展開しておられます。その場合の汚れとは衛生上の問題ではなくて、宗教上の問題です。そのことにおける主イエスの主張の中心は、「外から人の体の中に入る物が人を汚すのではなくて、人の中から出てくる物が人を汚す」ということです。それは人が清い、すなわち神から受け入れられるとか、汚れている、即ち罪があるとかということは、外面的なことではなくて、内面の問題であるということを意味しています。ユダヤ人は伝統的に、また昔の人からの言い伝えとして、食べて良い動物と食べてはいけない物を区別し、また決まった作法で身を清めたり手を洗ったりしなければ汚れを身につけてしまうという考えを持っていました。しかし主イエスはそうした「規定」を廃棄する意味で、「外から中に入る物が人を汚すのではない」と言っておられるのです。これによって主は旧約時代の限界を乗り越え、また人の言い伝えの制約を打ち破っておられます。

それでは主イエスは人を清い者としたり、汚れた者とするのは一体なんであると言っておられるのでしょうか。そのことについては、「人の中から出てくる物」が人を清くしたり、逆に汚れた者とするということで言い表しておられます。人の中から出てくるものとは、端的に言えばその人の「言葉」です。そしてその言葉が内包していることがらが、その人の行動を生み出すことを教えておられます。言葉はその人の心の内を映し出し、言葉は行いを生み出します。その心が神の思いを正しく捉えることができず、邪悪な思いに満たされているならば、その人の心から出てくる言葉も邪悪なものとなるし、その言葉に基づく行動も、神の御心に叶わないものとなります。それは人を傷つけ、共同体を破壊します。新約聖書のヤコブへの手紙(3:9~10)には次の言葉があります。「わたしたちは舌で、父である神を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです」。言葉を生み出す心の特質が見事に語られています。

主は人間存在にはこの次元があることを明らかにして、食べる物や食べる作法などが神の前での人間の評価を決めることにはならないことを教えておられます。サムエル記上(16:7)に次の神の言葉があります。「(わたしは)人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって(その人を)見る」。これは何と恐るべきことでしょうか。わたしどもがどんなに表面を繕っても、神がご覧になるのは、神との間で通じ合うことの出来るはずの心の内側であるというのです。誰がこの厳しい神の眼差しに耐えることができるでしょうか。しかし欠けを持ち、人を傷つけ、神のみ名を汚すことの多いわたしたちを神は憐れんでくださって、聖霊の炎によって心を清め、言葉を精錬し、そして行いを正してくださいます。心がけるべきことは次の言葉によって言い表されています。「いつも塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4:6)。聖霊なる神の炎によって清められた神賛美の言葉、そして人を生かす愛のこもった言葉を語る者でありたいと願います。