マルコによる福音書7章1~13節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
主イエスの宣教活動が進められていくにつれて、主とファリサイ派の人々や律法学者たちとの対立が強まってきました。本日の出来事は、ユダヤ人の「清め」に関する言い伝えを巡ってのものです。ユダヤ人は、神から直接与えられた戒めや掟以外に、それらから派生した人間の手による数々の戒めを言い伝えとして持っていました。清めに関する決まりごとは、昔の人の言い伝えに属するものでした。それによると、人は食事をする前には手や食器を念入りに洗い、身を清めなければなりませんでした。それは衛生的観点からの規定ではなくて、宗教的な要素を強く持ったものでした。
ところが主の弟子たちは、その言い伝えを守らずに、洗わない手で食卓につく者たちもいました。ファリサイ派の人々はそのことを問題にして、主に「なぜなのか」と詰め寄っています。主の集団は汚れた集団、つまり罪人の集団であると彼らは考えています。しかし主は、彼らは昔からの言い伝えに対して形だけは守っているけれども、彼らの神に対する忠実さや誠実さは、決して御心にかなったものではないことをご存じでした。それで主は彼らに対して、イザヤ書の言葉を引用して、彼らを偽善者として厳しくとがめておられます。イザヤ書からの引用は、「この民は口先だけではわたしを敬うが、その心はわたしから離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、空しくわたしをあがめている」(6~7節、イザヤ29:13参照)です。つまり、形骸化した、心の伴わない形だけの掟の遵守は、神が決して喜ばれるものではない、と言うことを彼らに教えておられます。主は御心を物差しとして、自分たちの信仰を徹底的に吟味することを彼らに求めておられるのです。それは、今日のわたしたちの信仰のあり方にも通じるものであることを教えられます。
主は彼らにもう一つのことを語られました。それは「コルバン」という言葉を巡ってのものです。これはヘブライ語で、「神への供え物」という意味を持っています。人が自分の金銭や物品を神に捧げる物としてより分けておく場合、「これはコルバンです」と言えば、それは神への供え物以外には用いられなくなります。神への捧げものをより分けておく姿勢は基本的には大切なものを含んでいます。しかし、現実にはそれは悪用されることもありました。例えば、親が差し迫った状況の中でわが子に金銭的な援助を申し出た時に、それに応じたくない場合は、自分の持ち物に「コルバン」と言えば、それを親に差し出す必要がなくなるのです。神の戒めの中に「あなたの父と母を敬え」があります。今述べたような子どものあり方は、この戒めを犯していることになります。さらには親への尊敬と服従を通して、神への信頼と奉仕を求めておられる神の御心にも沿わないことになります。主は言われます、「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」。
わたしたちにおいても、「これこそが信仰的だ」とか「これこそが教会的だ」と主張することの中に、神の御心に沿わないものを含んでいることがしばしばあるに違いありません。信仰は、日々、神のみ言葉による吟味と点検を必要としていることを、深く心に刻みたいものです。