マルコによる福音書6章6後半~13節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
主イエスはこれまで弟子たちをそばにおいて御言葉を語ることや祈ることの訓練をしてこられました。そしていよいよ時が来たと主が思われたとき、12人の弟子たちを二人一組にして宣教へと派遣されます。そのとき主が弟子たちに授けられた権能は、一つは人々を悔い改めに導く御言葉を語ること、そしてもう一つは汚れた霊に取りつかれて病の中にある人を癒すことでした。これは主ご自身がなさった働きと同じものです。ということは、弟子たちの働きは主の業の継続であることが分かります。弟子たち自身には語るべき言葉も病める人を癒す力もありません。彼らはそれを主から受け取るのです。
弟子たちは宣教に遣わされるにあたって、携えていくべきものとそうする必要のないものとの指示を主から受けました。携えるべきものは杖1本、履物をはき、下着も1枚だけが許可されました。一方、携える必要のないものとして、パン(食料)、袋(パンや衣類を入れるもの)、お金、下着は2枚以上はだめと言うものでした。宣教に出かけるときは身軽であれ、旅支度や旅先での生活に心を用い過ぎるなという忠告が込められていますし、また、必要なものはその時々に与えられるという神への信頼を促しておられます。
弟子たちは主による派遣の言葉から、彼らが携えていくべきものは何よりも神の言葉であるというメッセージを聞き取らなければなりません。神の言葉を携えることを怠って、その他の日常生活のことに心を奪われてはならないのです。弟子たち自身は土の器です。その器に盛るべきものは生活必需品ではなく、尊い神の言葉です。神の言葉が貧しくあってはならないのです。
主はさらに宣教先でのことについても語っておられます。その一つは、弟子たちを迎え入れる家が見つかったら、その地の宣教活動の終わりまでそこにとどまり続けよ、もっと良い条件の住まいを捜すことはするな、と言うものです。これも弟子たちを御言葉の宣教にのみ集中させるための忠告です。
さらにもし御言葉を受け入れず、弟子たちを迎え入れない人々がいたら、そこを離れるとき、足の裏の埃を払い落しなさい、ということも命じられました。これは分かりづらいかもしれません。この行為によって弟子たちは、そうした拒否反応を示す人々のことを神に委ねます、ということを言い表すことになります。こうして弟子たちの最初の宣教活動が始められ、実りが与えられました。
最後に今日の教会について考えてみましょう。弟子たちが主のもとから派遣されたように、教会もまた主によって各地に派遣された信仰者たちの集団です。主から派遣された教会は、主が弟子たちに託されたことと同じことを行うのです。神の御言葉を語って人々を悔い改めと救いに導くこと、癒しを必要としている人々のために、心を込めて祈り仕えること、そのようにして使命を果たしていきます。教会そのものは、貧しくもろい土の器に過ぎません。しかし神ご自身が、真の命に至る尊い宝をその器に盛ってくださいます。そして務めを果たすための力をも与えてくださいます。そのように宣教のためにすべてを整えてくださる教会のかしらである主に対する信頼を固く持って、福音宣教のために真剣に闘うことが、地上の教会のありようです。