マルコによる福音書6章1~6節前半
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
主イエスは弟子たちと共に各地をを巡り歩かれた後に、青少年期を過ごされた故郷ナザレに帰られました。それは単なる里帰りではなく、福音宣教のためでした。初めてイエスの教えを聞いたナザレの人たちの反応がここに記されています。その反応は、「この人は、このような教えをどこから得たのだろうか。この人の行う奇跡はいったい何か」というものでした。かつて同じ土地で生活し、その家族構成もよく承知しているイエスに、人々は自分たちとの同質性を期待していたのでしょうが、その教えやなさる業は、彼らの想像を大きく超えたものでした。そこに彼らの戸惑いや驚きが生じています。
彼らはその驚きの原因をさらに深めるべきでした。「この教えはどこから与えられたのか」、「このような業はいったい何に基づくものなのか」と、彼らの驚きの原因や由来や根拠を探求すべきでした。それによってこの人々は、イエスの背後におられる父なる神に出会うことができたでしょうし、また待望の救い主としてイエスに出会うことができたはずです。しかし彼らはそうはしませんでした。せっかくイエスの中にある特別なものに気づき、これはいったいどこからかとの大切な問いを抱きながら、その問いを中途半端に処理してしまったのです。彼らはイエスを特別な存在として見ることを拒んだのです。
彼らのそのような姿勢をある人は、「それはイエスの郷里の人々の自己愛が、彼らの目を真理に対して閉ざさせたのだ」と述べています。新しい生き方を求めるよりも、自分たちのこれまでの考えや生き方や習慣を重んじて、それを維持しようとする心が彼らを動かしているのです。そのためにイエスに対して拒絶反応が示されることになります。聖書では「人々はイエスにつまずいた」と表現されています。自分たちとの異質性が彼らにとっては大きな妨げとなって、主イエスの中に入り込むことができないでいるのです。
主イエスはそのような人々の姿を見て、おそらく当時のことわざの一つである次の言葉を語られました。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(4)。過去の古い人間関係や価値観によって生きている人々にとって、新しい生き方や価値観は、その中にどれほど尊いものが含まれていたとしても、容易には受け入れられないものであることが分かります。
旧約時代の預言者エレミヤも人々から激しくあざけられ、退けられました。しかし、それでも彼の内に働く神の力によって語り続けました。主イエスは故郷で少ししか語ることができず、またわずかしか癒しを行うことができず、人々の不信仰に驚かれつつナザレを離れて行かれました。しかし、人々の拒絶は、新しい宣教への派遣の動機となるのです。
今の時代も、主がご覧になれば「その不信仰に驚かれた」と言われるような状況かもしれません。主イエスに関心を持つ人はいても、多くの人はその域を出ないのです。真剣に問うものが少ないのです。しかし、小さな関心から信仰の歩みが始まり得ることを思うとき、わたしたちは御言葉の伝達の働きを決してやめるわけにはいきません。御言葉の伝達の業は決して無駄に終わってしまうことはない、との確信がわたしたちにはあるのです。