「墓場を住まいとする人」

マルコによる福音書5章1~10節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

わたしたち人間にとって屈辱を覚えたり、耐えられない思いにさせられることは何でしょうか。人によって異なるかも知れませんが、おおむね共通のこととして、人間としての尊厳が奪われること、また自分の存在が無視されるということがあるのではないでしょうか。今日でも、ある人が他者の存在を傷つけることは人間疎外・人格否定という形で、現実にしばしば起こっています。

そのように人間としての尊厳が傷つけられた時、人はどのような反応を示すでしょうか。その一つは外に向かう反応で、自分を守るための手段として暴力を用い、自分の存在を荒々しく主張するということがあります。今日登場する男は名前を聞かれたとき、ローマの軍隊を意味する「レギオン」という名で自分を言い表しているのも、その一つの表れです。他方、内面に向かう反応もあり、その場合は悔しさや悲しさや痛みが激しく自分を責めさいなみ、心と体の変調をきたすという痛ましい状態になってしまいます。その人は異常な精神状態、いわゆる「狂った」と人から見られる状態に陥るのです。

今日主が出会われた男の人は異邦のゲラサ人であり、「汚れた霊に取りつかれている」ということで説明されるような、自分の力では制御できない異常な精神状態に置かれています。そのため人々によって墓場に追いやられました。その惨めさの中で、彼は自分を縛る鎖や足かせを破壊するほどの力を表していました。しかし、それによって他者を傷つけることはしませんでした。自分自身を傷つけ、石で打ち叩き、大声をあげて日々を過ごしていました。人から傷つけられたくないという思いが、自傷行為を行わせているのです。

そこに主が現れました。ガリラヤ湖のほとりで、先に「向こう岸に渡ろう」(4:35)と言われた向こう岸とは、異邦人のゲラサ人の地でした。墓場を住まいとしているこの人は、主イエスに出会ったとき「いと高き神の子、かまわないでくれ」と叫んでいます。精神の狂いの中にあっても、彼には聖なるもの・神なるものを見分ける力が備わっていたのかもしれません。さらに彼の「どうかわたしの邪魔をしないでほしい。ほっといてくれ」との叫びの背後に、これまで彼に関わった多くの人が彼を苦しめた過去が隠されているように思います。彼は他者に干渉されたくないのです。しかしそれは裏を返せば、真実に自分を受け止めてくれる人を求めている切なる叫びなのかもしれません。

主は彼の叫びにも拘らず彼に近づき、名前を尋ねられます。主は、この人は汚れた霊に取りつかれているという判断をなさって、次のように命じられました、「汚れた霊、この人から出て行け」と。その応答として「自分たちをここから追い出さないで欲しい」という言葉が記されています。これは彼の中に取りついている汚れた霊たちの叫びですが、実際は、彼自身の声として発せられたに違いありません。彼と、彼に取りついている汚れた霊たちは区別できないほどに一体化していることが分かります。主イエスは「かまわないでほしい」とのこの人の叫びに対して、「わたしはあなたに関わりたいのだ」と言って、彼の癒しに取り掛かられます。そのようにして主との出会いが彼に起こり、彼は癒されるのです。今もその主は働いておられます。