「主イエスの兄弟とはだれか」

マルコによる福音書3章31~35節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

教会の伝道の働きにおいて、家族伝道はいつも大きな課題として語られます。教会は何よりもまず身内の者に伝道すべきであって、それがうまくいっていないのに、教会の外への伝道はうまくいくはずがない、と言われることもあります。その主張に耳を傾けなければならない面はありますが、しかし、家族伝道がうまくいっているときにのみ外への伝道が許されるというのは、現実的ではありません。わたしたちはその両方に取り組まなければならないのです。

主イエスの場合、家族との関係はいかなるものだったでしょうか。主イエスの宣教活動の初期には、イエスに対する家族の無理解が目立ちます。21節には身内の人がイエスを取り押さえに来たと記されており、31節以下では主イエスの母や兄弟たちがイエスを家に連れ戻そうとしている様子も描かれています。彼らは、イエスは「気が変になった」と考えていて、主イエスのそばに近づこうとはしていません。それは彼らが主イエスが教えておられることに耳を傾ける意思を持っていないことを表しています。

主イエスはそのような身内の人に関して、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と突き放すようなことを語っておられます。何かとても冷たいものを感じさせられる言葉です。主がここで明らかにしようとしておられることは、主ご自身の行動・あり方を決定する者は、血のつながりのある者たちではない、ご自身をこの世に遣わされた天の父がのみがその方である、ということです。ですから、母や兄弟がイエスのあり方を肉の関係で支配しようとしても、それに従うことはできない、というのが主イエスの主張です。

そのあとに、主イエスの真の母や兄弟や姉妹は誰であるかを明らかにしておられます。それは、「神の御心を行う人」、その人々が真に主イエスの家族であるということです。すなわち神を父とする家族がそこにのみ形成されるのです。それは血肉による結びつきではなく、霊的な結びつきによる家族である、と言ってよいでしょう。その場合の神の御心を行うとはどういうことでしょうか。ヨハネ福音書(6:28~29)に次のような問答があります。弟子たちが「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねたのに対して、主は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えられた問答です。人が神の業を行うこと、御心を行うことの中心に、神が遣わされたイエスを救い主として信じることがあることが分かります。

これは、イエスの肉親たちにもそのまま当てはまることです。彼らは血肉の関係を超えて、イエスとの新たな関係へと招かれています。またこの主の招きは、地上において何の頼るべきものも誇るべきものも持たず、何の功績もない人々に大きな慰めと励ましの言葉として響いています。なぜならそのような人々は、神の御心を行うこと、すなわち主イエスを救い主として信じることによって、神を父とする新しい家族の一員とされるからです。わたしたちの教会の祈りと願いは、この「神の家族」をさらに増やしていくことです。この家族は、決して閉ざされた集団ではないのです。