マルコによる福音書2章18~22節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
今日のテキストは、主イエスと弟子たちが罪人たちと食事をしていることに不信感を持った人々が、食事とは反対の「断食」の問題を取り上げて、主イエスがそれをどのように考えているかを問うている場面です。断食はイスラエルの国においては、食を断つ苦しみの中で、自分の罪を悔い改め、神に赦しを求めて祈るという宗教的に大事な面を持っていました。しかし、いつしかその本来の目的から離れて、断食が人の信仰を計る物差しのようなものとして用いられることもありました。人々は、主と弟子たちが断食するのを見たことがないために、いったい彼らの信仰はどうなっているのかと尋ねているのです。主はそれに対して比喩やことわざ的な表現によってお答えになります。
第一に、花婿がいる婚礼の席では人は断食をしないと言われます。これは、神はイスラエルの花婿であり、イスラエルは神の花嫁であるという歴史的・伝統的な考えに基づいています。今は花婿であるメシア(イエス・キリスト)がこの国に来ておられる、そのような時にイスラエルの民は断食よりも、花婿である主と共にいることを喜ぶべきである、と言われるのです。その喜びの一つの場が、共に食事をする時でした。しかしやがてその花婿も取り去られる時が来る、すなわちメシアが人々の手によって死を迎える時が来る、その時には断食をして大いに苦しみ、嘆き、悔い改めなさいとも言っておられます。
第二の答えは、古い衣服に継ぎをあてるときに、新しい織りたての布切れは用いない、そんなことをすれば古い着物は一層引き裂かれてしまう、という比喩による答えです。これは新しい布切れは、新しい衣服にこそふさわしいということで、人々にメシア到来による新しい生き方を求めておられるものです。
第三の答えは、新しいぶどう酒は、古い革袋に入れるものではない、そんなことをすると革袋は裂けてぶどう酒は台無しになるという、当時一般的に用いられていた考えられることわざをもって答えておられます。そこから導き出される結論は、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」ということです。神が約束されたメシアが来られた、今はその時だ、そうであれば人々は今までの生き方を変えなければならない!新しい生き方とは、それぞれがその心を空(から)にして、救い主イエスをそのまま受け入れるあり方です。
信仰に生きるとは、今までの生き方に何かを付け加えることではありません。今までの生き方に欠けていたと思われるものを補うことでもありません。わたしたちの生の土台が変わること、人生の中心軸が新しくなることです。それは全面的に自分自身を主に明け渡して生きることであると言って良いでしょう。
今の時代は、主が言われたように、主がこの世から取り去られた時代です。しかし、その主はよみがえられたお方として、み言葉と聖礼典において、また聖霊と共に、今わたしたちのただ中に生きておられます。そうであれば、わたしたちも、断食よりも、主との交わりによって喜びを十分に味わい、恵みを受け取るべきなのです。その喜びを味わうために備えられている場所と時が、主日の礼拝です。