マルコによる福音書1章1〜8節
佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧
マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まっています。ここで言われる「福音」とは何でしょうか。それは端的に言えば、神から遣わされた唯一の救い主イエス・キリストのことです。したがって、冒頭の句は「神の子イエス・キリストの福音が、今ここに始まる」ということになります。マルコによる福音書全体を通して、私たちは神の子イエス・キリストに出会うことが求められています。イエス・キリストに出会わずに、この書を読み終えることはあってはならないということです。神は御子において、人間の再創造の業に取り組まれたのです。
その句に続いて、預言者イザヤの言葉が引用されています。これは、救い主がイスラエルの世界に遣わされる前に、神は多くの預言者を送るという預言です。事実、イスラエルの国には、イザヤをはじめ、多くの預言者が神から遣わされて、救い主が来られる準備を人々に促しました。そして、そのような預言者の最後のものとして、洗礼者ヨハネが遣わされるのです。それが、4節以下に記されています。
これらのことが示していることは、神はある人のための救いの働きをなさる前に、その救い主を迎える準備をさせるために、いろいろな人を送られるということです。それは、先駆者とも呼ばれます。その先駆者によって、人はイエス・キリストと出会う備えをすることができます。
私たちも振り返ってみるならば、私たちが救い主イエス・キリストに出会う前に、私たちのために道を備えてくださった人が幾人もいたことを思い起こさせられます。あの人、この人が、私の救いのために神から遣わされてきたのだ、その方たちの導きによって私は救いを手にすることができた、と感謝をもって思い起こすことができる人々がいます。その時は気が付かなかったとしても、今振り返るなら、その人々は間違いなく、神が備えてくださった私のための先駆者であったのです。
そのことを感謝をもって思い起こす時、次は、私たち自身があの人、この人のために、また私たちの愛する人たちのために、先駆者としての働きをしなければならないということを思わせられます。自分は他者の救いのために神から遣わされているのだという意識を強く持つことは大切なことです。その思いは、自然と、心に覚える人たちのために祈ることになり、また、聖書の大切な一言を書き加えた手紙を書き送るということにもつながるはずです。
そのようなことができるものとなるためにも、私たちはこの福音書を通して、真の救い主イエス・キリストに何度も出会って、心が揺さぶられることが大切です。そのための主日礼拝であり、またそのことが起こるような聖書の朗読、説教を聞くことが繰り返されるようにと祈ります。