コロサイの信徒への手紙 3章1~4節
教師 久野 牧
新しい年の初めに当たって、使徒パウロが書いたとされる「コロサイの信徒への手紙」からみ言葉を聞き取り、一年の歩みの指針としたいと願います。
わたしたちは、人間の死についていろんな角度から考察することができます。その結果出てくる死についての最も端的な一般的な定義は、「死は生きている者たちのすべての終りである」ということです。そこで、わたしたちの大きな関心事となるのは、その死への備えはどうあるべきかということです。それは後悔しない「死に方」とはどういうものかということですし、換言すれば後悔しない「生き方」とは何か、ということです。一般的に、自分の人生を自分が作った設計図通りに生きることができたとの達成感を覚える場合、その人は悔いることなく死ぬことができるでしょう。あるいは自分の人生を十分に楽しむことができたという満足感を覚える人は、「わが人生に悔いなし」との思いで終わりを迎えることが出来るかも知れません。
しかしわたしたちは過去を振り返ることよってのみ、生を価値づけることで良いのでしょうか。その場合、死の後のことはどうなっているのだろうかという問題が残ります。即ちそれらの人には未来のこと、永遠の終わりのことが全く視野に入っていないのではないか、ということです。コロサイの信徒への手紙3章2節には、「地上のものに心を引かれないようにしなさい」と記されています。そのうえで、「上にあるものを求めなさい」(1節)、「上にあるものを心に留めなさい」(2節)と勧められています。「上」には、すなわち神のもとには何があるのでしょうか。コロサイ書の次の二つの言葉に注目しましょう。
「そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」(1節)。
「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(3節)。
神のもとには復活の主がおられる、そしてその主と共にわたしたちの新しい命が神の内に隠されている、と言うのです。神は、すべての人がキリストとの結びつきの中で、その命を手にするようにと待っておられます。必ず死ぬわたしたちです。しかし神のもとにはわたしたち一人ひとりのための新しい命が備えられている、それゆえ死を超えて、神のもとにあるこの命を見つめ、この命を求めることこそが、地上の人生の大きな目標とならなければならない、ということです。
これは、地上の過去の歩みを見ることとは全く違います。未来を、つまり死の後を見ること、神の約束を見ることです。キリストの十字架と死と復活に目を向けることによって、わたしたちに約束されているものが見えてきます。したがって、「上にあるものを求めなさい」とは、換言すれば、十字架とよみがえりと昇天のイエス・キリストに思いを集中しなさい、ということになります。このお方がわたしたちのために成し遂げてくださった救いのすべてに目を向けなさい、ということです。そのとき、神がキリストを通してわたしたちに約束されている新しい命の賜物が見えてくるのです。これこそが何ものにも勝るわたしたちの永遠の宝物、命の冠です。これにふさわしく生きることが、悔いのない生へとつながります。
「この世は、キリストが何であるか、キリスト者が何であるかを知らないが、キリスト者自身も、自分自身を本当には分かっていないのだ」(ベンゲル、18世紀)。
これは、言い換えればキリスト者は、イエス・キリストを通して差し出された神の恵みの大きさと素晴らしさとをもっと知るべきである、ということです。そうすることによって、死の恐怖と不安を乗り越えて、この一年も力と喜びと希望をもって地上の生を生き抜くものとされることでしょう。