「ステファノの説教と殉教の死」

使徒言行録7章44-60節

教師・久野 牧

ステファノは捕らえられた身でありながら、エルサレムの最高法院で演説(説教)をしました。その記録が、7章1節から53節までに記されています。今日はその最後の部分(44―53)にまず注目してみましょう。彼はイスラエルの民が荒野の旅を続けていたときに、礼拝所として幕屋を建てたことに触れた後、パレスチナに定住してからは、第三代の王ソロモンがエルサレムに神殿を建てたことまでを語っています。しかし、神との関係は神殿を建てることによって終わってしまうのではなくて、神殿での神礼拝を日常において徹底することが重要なことでした。「いと高き方は、人の手で造ったようなもの」(48節前半)に閉じ込められてしまうお方ではないからです。

しかし、イスラエルの民の現実は神への真実を貫くことからはほど遠く、常に神の御心に背くことを繰り返し行っていました。そうした民のことをステファノは、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人」(51)と痛烈に批判しています。それは心と耳が幕で覆われているために、神のみ言葉を正しく聞き取ることが出来ず、常に神に逆らうことを行っているということです。そのため彼らの先祖は、旧約の時代には、神の言葉を語った預言者たちを殺し、また新約の時代に入ってからは、預言者たちが預言した「正しい方」(52)、すなわち救い主イエス・キリストを殺してしまったと、彼らの罪を暴き出しています。ステファノはそのような彼らの罪が、今はキリストの弟子であるわたしを迫害するという形で再び表されている、と指摘しています。

そこまで語ったところで人々は、ステファノにそれ以上語ることを許さず、激しい怒りの内に彼に襲いかかり、都の外で石を投げつけて、ついに彼を殺してしまいました。ステファノは殉教の死を遂げたのです。彼は殺される痛みと苦しみの中で、「天を見つめ」(55)、神の右におられる主イエスに自分のすべてを委ねて眠りにつきました(60)。そのようにして死んでいくステファノがそのとき口にしたのは二つの祈りでした。一つは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59)と、もう一つは、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60)です。この二つの祈りは、次の主イエス・キリストの十字架上の祈りに似ていることに多くの方が気づいておられるでしょう。

「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。

主イエスは父なる神に呼びかけ、ステファノは神の右におられ主イエスに呼びかけています。こうして彼は死のときにも傍らにいてくださる復活の主イエスを見つめることによって、希望と慰めの内に死に向かうことが出来ました。それは、わたしたちの死においても同じことです。わたしたちが信仰者として地上の生を終えるとき、それがどのような死であっても、復活の主がわたしたちの傍らにいてくださり、天の神のもとへと導いてくださいます。この幸いをわたしたちは、ステファノの死から示されます。わたしたち信仰者は、孤独の内に死んでいくのではないのです。わたしたちの唯一の慰めは「わたしが生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであること」(『ハイデルベルク信仰問答』)です。

主日礼拝 .2022.12.04

開会     10時15分
司会    加藤  治
奏楽    古賀 洋子

前奏
招詞イザヤ書66章1~2節a (旧約p1169)
讃美歌52 しゅのさかえに
祈祷
聖書使徒言行録7章44~60節 (新約p226)
信仰告白使徒信条
讃美歌85 しゅのまことは
説教「ステファノの説教と殉教の死」
(原稿)久野 牧  (代読)加藤 治
祈祷
讃美歌191 いともとうとき
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄540 みめぐみあふるる
派遣と祝福
後奏

主日礼拝 2022.11.27

開会     10時15分
司会    古賀 洋子
奏楽    十時やよい

前奏
招詞詩編25編8~11節 (旧約p856)
讃美歌31 わがみかみよ
祈祷
聖書ローマの信徒への手紙1章16~23節 (新約p273)
信仰告白使徒信条
讃美歌97 あさひはのぼりて
説教「弁解の余地がない私たち」 (長老) 古賀洋子
祈祷
讃美歌273B わがたましいを
聖餐式
讃美歌
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄540 みめぐみあふるる
祝祷
後奏

「七人の奉仕者の選出」

使徒言行録6章1-7節

教師 久野 牧

エルサレムに建設された初代教会は、宣教活動によって弟子たちの数、すなわち信仰者の数が増えて行きました(1節)。宣教の実が実っているのです。そのように順調な歩みを続けているように見えた教会の中に、今、一つの問題が生じています。それは教会内の二つのグループの間に起こったことでした。

二つのグループの中の一つは、「ギリシア語を話すユダヤ人」たちです。彼らは、もともとユダヤ人なのですが、両親あるいは祖父母たちの時代に外国に移り住んだために、母国語のヘブライ語を話すことが出来ず、ギリシア語(外国語)を話す人々でした。彼らは今エルサレムに戻って、信仰者となっています。他のグループは、「ヘブライ語を話すユダヤ人」で、先祖以来イスラエルの国に住み続け、ヘブライ語を話すユダヤ人で、ギリシア語はあまり理解できなかったかも知れません。前者は少数のグループであり、後者は多数のグループです。

その当時、教会においては貧しい人々に食料や物資の配分がなされていました。それは、公平・平等が原則です。しかし実際は少数派のギリシア語を話すやもめたちは、ヘブライ語を話せないこともあって不利益を受けることがありました。そのことに対する苦情が、教会の中で公になって来たのです。

その問題は指導者である使徒たちの耳に入りました。彼らはそれを軽く考えず、解決のために立ち上がりました。彼らは信者たちを集めて、二つのことを述べました。一つは、使徒たちはこれまで、み言葉の宣教の務めだけではなく、食料の分配のことにも携わってきた、しかし今後は分配のことは他の人に任せて、自分たちは宣教と祈りという本来の務めに専念したい、ということです。そうすることによって、主から託されている教会の主たる務めを推し進めて行きたいと考えています。

そのために第二のこととして、今後は食料の分配は、それに専念する人たちを選び出して、彼らにその仕事を任せよう、ということです。その選出に当たって、使徒たちが出した条件は、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選ぶ」(3節)というものでした。祈りつつ聖霊の賜物を求める人、他の信仰者たちに心遣いの出来る人、「仕えられるよりも仕えること」ができる人を選ぶようにと使徒たちは求めました。こうして選挙が行われ、その結果、七人が選ばれました。

その人たちの名前は5節に記されています。わたしたちには分かりにくいのですが、これらの人々の名は皆、「ギリシア語を話すユダヤ人」に属する少数者のものと考えられています。不公平を解消するためになされた選挙において、このような結果が得られたのは、聖霊の導きがあったからこそです。この七人の人たちは、使徒たちによって按手のために手をおかれ、必要な聖霊の賜物が与えられるようにと祈られることによって、その務めにつきました。今日の執事職の始まりをここに見ることが出来ます。

教会内に問題が生じたとき、それは教会の危機となることもあれば、飛躍のときともなります。エルサレム教会では、信仰者たちが皆召集されて教会会議が開かれ、それによって良い結果を与えられました。7節に教会のその後のことが喜ばしく報告されています。主の名によって集い、主の御心を求めて祈り、協議するとき、必ずそこにみ旨に適った結論が与えられたり、また向かうべき方向性が示されます。今日の教会にとっても、このことはとても大切なことであることを教えられます。

主日礼拝 2022.11.20

開会     10時15分
司会    十時やよい
奏楽    古賀 洋子

前奏
招詞詩編1編1~3節 (旧約p835)
讃美歌26 こころをかたむけ
祈祷
聖書使徒言行録6章1~7節 (新約p223)
信仰告白使徒信条
讃美歌164 こひつじをば
説教「七人の奉仕者の選択」
(原稿)久野 牧、( 代読)十時やよい
祈祷
讃美歌391 ナルドのつぼ
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539 あめつちこぞりて
派遣と祝福
後奏

主日礼拝 2022.11.13

開会     10時15分
司会    栗林 恵一
奏楽    十時やよい

前奏
招詞詩編8編2~3節 (旧約p840)
讃美歌195 いのちのきみに
祈祷
聖書マタイによる福音書6章9節 (新約p9)
信仰告白使徒信条
讃美歌288 たえなるみちしるべの
説教「天におられる父なる神様に祈る」
李 炳斗  下関教会牧師
祈祷
讃美歌217 あまつましみず
聖餐式
讃美歌202 くすしきみすがた
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄539 あめつちこぞりて
祝祷
後奏

「人間に従うよりも、神に従え」

使徒言行録5章12-32節

教師 久野 牧

使徒ペトロたちは、エルサレム神殿のソロモンの回廊で人々に福音を説いていたとき、祭司長たちや神殿守衛長によって捕らえられて、牢に入れられました(4:1-3)。一度は使徒たちは釈放されたのですが、そのあと再び彼らは同じ場所で、み言葉を説き、癒しの業を行いました(5:12)。権力や敵対者を恐れない彼らの勇気ある姿をそこに見ることが出来ます。

12-16節を見ると、使徒たちの周りには多くの人々が集まっていたことが分ります。その中には、使徒たちを遠くからただ見続ける人たち、使徒たちを称賛するだけの人々、主イエスを信じる者とされた人たちなどがいました。さらに17節では、彼らに敵対する者たちが再び現れて、使徒たちを捕らえ牢に入れたのです。彼らは使徒たちに対するねたみに燃えていました(17)。最初の逮捕は、使徒たちが主イエスの復活を宣べ伝えていたことがその理由でしたが(4:2参照)、今回はねたみという人間的な感情がその背景にあります。福音が説かれるところでは、さまざまな反応があります。そして使徒たちの時代には、とりわけ力づくでその活動を止めさせようとする者たちが必ず現れ出て来たことを知ることが出来ます。

前回の捕らわれの時には、使徒たちは「今後イエスの名によって話したり教えたりしてはならない」という脅し付きで釈放されました。しかし今回は、主の天使がやって来て使徒たちを解放しました。そして次のように命じたのです。「この命の言葉を民衆に告げなさい」(20)。彼らは主の天使が命じるままに、主イエス・キリストが唯一の救い主であることを再び前回と同じ場所で語り始めたのです。天使による解放は、使徒たちをより安全な場所にかくまうためのものではなくて、み言葉を語らせるためのものでした。主イエスのなさることは、人知を超えています。

神殿当局者たちはそのような使徒たちを再び拘束して、最高法院で裁判にかけました。彼らは強い調子で尋問しています。「イエスの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか」(28節参照)。それに対して使徒たちはこのように答えましした。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(29)。これは第一回の逮捕の時にも彼らが口にした言葉でした(4:19参照)。この世の権力者たちは「語るな」と命じています。一方、主なる神は天使を通して、主イエス・キリストについて見聞きしてきたことをありのままに「語れ」と命じています。正反対の命令が使徒たちの耳に響いてきます。そうした時の彼らの行動の規準はいつも、「人間に従うよりも、神に従わなくてはならない」ということでした。それが「キリストの証人」としての唯一のあり方です。その姿勢が貫かれることによって、福音宣教の業は進展し、各地に教会が建てられることに結びつきました。

どのような時代であっても、キリストを信じ、キリストに従う者がとるべき姿勢は、使徒たちによって示されています。その姿勢を貫こうとするときに、それに必要な力も勇気も、そして語るべき言葉も、主なる神は必ず与えてくださいます。それが主の約束です。わたしたちの教会も、その主の約束を信じて、使徒たちに倣う教会としての歩みをこの地で強めて行かなければなりません。今日においても、教会には様々な圧力が見える形で、あるいは見えない形で加えられます。そのような時、わたしたちはエルサレム神殿での使徒たちの毅然とした姿を思い起こし、それに倣いたいものです。そうするとき、わたしたちもこの時代における「キリストの証人」としての働きを、力強くなすことが出来ます。

主日礼拝 2022.10.23

開会     10時15分
司会    栗林 聖子
奏楽    古賀 洋子

前奏
招詞ヨシュア記1章5~7節
讃美歌23 くるあさごとに
祈祷
聖書使徒言行録5章12~32節 (新約p221)
信仰告白使徒信条
讃美歌79 ほめたたえよ
説教「人間に従うよりも、神に従え」
原稿 久野  牧 代読 栗林 聖子
祈祷
讃美歌260下 ちとせのいわよ
聖餐式
讃美歌
献金と感謝祈祷
主の祈り
頌栄543 しゅイエスのめぐみよ
祝祷
後奏

「神を欺く罪-アナニアとサフィラ-」

使徒言行録5章1-11節

教師 久野 牧

エルサレムに形成された初代教会は、信仰者のそれぞれが自分の持ち物を教会のために差し出して、それを共有し合う共同体としての歩みを始めました。なかにはバルナバのように自分の畑を売って、その代金のすべてを教会に献げた人もいました。そのような教会の中で、一つの悲劇的出来事が起こりました。それはアナニアとサフィラ夫妻を巡ることでした。彼らもバルナバのように、自分たちの土地を売って、その代金を教会に献げました。しかし彼らの場合、すべての売上金を献げたのではなくて、「代金をごまかしてその一部を持って来た」のです(5章1節)。つまり、土地を売った代金のうち、ある程度の部分を自分たちの懐に入れて、その残りを、これが代金のすべてであるかのように献げたのです。

このことがペトロの察知するところとなりました。ペトロはまず夫アナニアに事実を確認しました。そしてその行為は、「人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と厳しくとがめたのです(5章4節)。その言葉の後、アナニアは倒れて、息が絶えてしまいました。しばらくして、妻のサフィラもペトロからの質問を受けて偽りの答えをしました。その結果、彼女も倒れて息が絶えました。なんという悲惨な出来事が起こったことでしょうか。

これには理解しがたいことがいくつかあります。そのためにアナニアとサフィラ夫妻に対する同情論も教会の歴史において生じてきました。一つの疑問は、自分の土地を売った代金の一部を自分のためのものとすることは、許されないことなのかということです。それは本来許されることでしょう。しかしこの夫婦の場合、教会に献げたものは土地を売った代金のすべてだという偽りを言ってしまいました。彼らは正直に言えばよかったはずですが、そうはしませんでした。そこに大きな罪があるのです。そのことをペトロは、「あなたがたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」という言葉で彼らの偽りの行為の本質を糾弾しています。教会に不義や偽りや虚栄が入り込んではならない、ということが示されます。

その偽りの結果二人とも倒れて息絶えたのですが、ここで次の疑問が生じます。それはペトロが二人を打ったのだろうかということです。しかし聖書はそうは記していません。彼らはただ倒れて息絶えたと記されいるだけです。それはつまり彼らは神によって打たれたということを示唆しています。神の厳しさが彼らに臨んだのです。わたしたちはこの出来事をそのままに受け入れるほかありません。

さらに彼らに悔い改めや赦しの機会が与えられなかったことに対して、気の毒な思いを持つ人もいることでしょう。確かにそうかも知れません。しかしこれから大きく成長していくべき生まれたばかりの教会が、最初からその姿勢をあいまいにしたまま歩みを続けることは、主なる神がお許しにならなかったのです。ローマの信徒への手紙11章22節に次のように記されています。「神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては、厳しさがある…」。その神の厳しさが、教会を真実な教会として形成していくのです。

教会は神の神殿であり、神の霊が住んでおられるところです(コリントの信徒への手紙一、3章16-17節)。この神殿を人間の不正や偽りによって汚したり、壊したりすることは許されません。そのことを教えるために、神は二人に対してこのように厳しく臨まれたのでしょう。エルサレム教会はこの悲惨な出来事から多くを学び、姿勢を正すことが求められています。