「イエス・キリストの系図」

マタイによる福音書1章1~17節

佐賀めぐみ教会牧師 久野 牧

本日と次週13日の礼拝は、待降節の説教として、マタイによる福音書1章を取り上げます。そして12月20日のクリスマス礼拝では、2章1~12節からクリスマスのメッセージを聞き取りたいと考えています。

この系図はイスラエルの祖先アブラハムから始めて、ヨセフの妻マリアから御子イエス・キリストがお生まれになるまでの流れが言い表されています。歴史的に必ずしも正確ではありませんし、全期間を14代ずつ三組に分けているのも人為的な感じがします。しかしこれは史実に正確であることが本質的なことではなくて、この系図全体を通して神の約束が果たされたことを言い表そうとしているものです。したがってこの系図は厳密な歴史的記述というよりも、イスラエルの民の信仰告白という方が当たっているでしょう。いくつかの特徴があるのですが、ここでは二つの点に絞ってご一緒に考えてみましょう。

一つは、神が大いなる繁栄を約束されたアブラハムから始まって、その末にメシアが誕生すると告げられたダビデを経てイエス・キリストに至る過程における最終段階で、つまりイエスの誕生において、血の流れが途切れているということです。アブラハムの系統を引いているのはヨセフです。しかし、イエスはヨセフの血を引く子ではありません。それでは母マリアがアブラハムの系統の末かと言うと、そのことは系図で言い表されていません。それでもイエス・キリストはダビデの子と言われています。なぜなのでしょうか。それは、母マリアがダビデの末のヨセフと結婚することによって、マリアが生む子は、その誕生のいきさつがいかなるものであれ、ダビデ家の末となる、というのがイスラエルの考えだからです。こうして、神が先祖に約束された救い主の出現は、長い時間をかけながら現実のこととなりました。それを明らかにすることによって、この系図は神の約束の真実を告白しているのです。系図の中に「神は偽るこのないお方である」という信仰を読み取ることができます。

もう一つの特徴は、この系図の中にマリアを除いて四人の女性が登場していることです。タマル、ラハブ、ルツ、そしてウリヤの妻(バト・シェバ)です。これらの女性は際立って立派な人であったかと言うとそうではありません。彼女たちは皆、非ユダヤ人(異邦人)であり、子どもの出産に当たって、それぞれに罪や過ちが伴っています。できれば系図に載せたくない人たちです。そうした女性が系図の中にあえて加えられることによって、系図が汚れるということはないのでしょうか。そうではありません。そのことによって言い表されていることは、ユダヤ人以外の血が混入したり、過ちが犯されたりしても、神がいったん約束されたことは必ず果たされるということです。さらに神は社会的にまた、世間的に地位の高い者や優れている者をご自身の計画を実行されるときの器として用いられるのではなく、逆に貧しく汚れにまみれている者を用いてご自身の救いの業を進めていかれるのです。そのような神であられるからこそ、ここにいるわたしたちも神の救いに与ることができるものとされています。誇るべきものを何も持たないわたしたちですが、この系図の末にお生まれになったメシアは、まさしくわたしたちのためのお方です。