使徒言行録10章34-48節
教師・久野 牧
福音はその内に秘めた力によって、自らの領域を広げていきます。それを如実に示しているのが使徒言行録の記述です。本日の場面は、使徒ペトロが地中海沿岸の港町カイサリアにいるイタリア人(異邦人)コルネリウスの家に招かれて、み言葉を説いている場面です。この説教は二つの内容から成っています。一つは神が遣わされた御子イエス・キリストに起こった十字架の死と死からのよみがえりという歴史的出来事に関するものです(34-40)。二つ目はキリストに起こったその出来事がわたしたち人間にどのような益や恵みをもたらすかに関するものです(41-43)。
ペトロの説教は「神は人を分け隔てなさらないことが、よくわかりました」で始められています。これは神がわたしたち人間をご覧になるときの眼差しを言い表しているものです。ある人が言っています。「どういう尺度で人を測るかで、その人自身が測られる」。人を測るとは、人を評価するということです。その時の尺度は様々です。財産や学歴や家柄などによって人を測ることもあります。外観・外見(容姿)によって測ることもあります。その人の思想や考え方を測りとすることもあります。さらに自分にとってこの人はどのような益があるかが、物差しとなることもあります。それらの尺度のいずれかによって他者を測るとき、自分自身も他者から同じ尺度によって測られることを覚悟していなければならないのです。
そういう中でわたしたちは、神との関係において人を見るという見方があることを教えられます。それは神がどのような眼差しで人をご覧になるかを知って、自分も同じ見方をすることです。その神独自の眼差しを表すものが、「神は人を分け隔てなさらない」です。それでは神が分け隔てをなさらないことが、どのようなことの中に現れているでしょうか。その神の特質を表すペトロの説教の言葉は、次のようなものです。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(35)。「この方こそ、すべての人の主です」(36)。「この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる…」(43)。神は何よりも救いにおいて人を分け隔てすることをなさらないのです。主イエスの十字架の死はまさしくそのためのものでした。ペトロの説教の第一の中心は、以上のことでした。
説教の第二の中心点は、主イエスの復活がすべての人にもたらした大きな恵みとして、「罪の赦し」を強調していることです(43)。神は人間が殺した主イエスを、三日目に死から命へと移されました。復活の出来事です。人間はキリストから命を奪って死へと追いやりましたが、神は死んだキリストから死を奪って、新しい命をお与えになりました。それによって「死が死んだ」のです。そして死に至るまで神に忠実であられた御子イエスに信仰によって結びつき、神への忠実な信仰に生きる者は、すべて神に受け入れられて、罪の赦しが与えられる、その結果その人においても死が死ぬ、つまり死に代わって新しい命が与えられます。こうして主イエスを通して、すべての人が真の命へと招かれます。このように神はすべての人を分け隔てなく、御子イエスを通して罪の赦しへと受け入れようとしていてくださいます。カルヴァンの言葉です。「復活(罪の赦し)の望みがあればこそ、わたしたちは倦むことなく、善き業に励むことができる」。パウロも語っています。「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(コリント一、15:58)。これは信仰者の確信です。