使徒言行録5章12-32節
教師 久野 牧
使徒ペトロたちは、エルサレム神殿のソロモンの回廊で人々に福音を説いていたとき、祭司長たちや神殿守衛長によって捕らえられて、牢に入れられました(4:1-3)。一度は使徒たちは釈放されたのですが、そのあと再び彼らは同じ場所で、み言葉を説き、癒しの業を行いました(5:12)。権力や敵対者を恐れない彼らの勇気ある姿をそこに見ることが出来ます。
12-16節を見ると、使徒たちの周りには多くの人々が集まっていたことが分ります。その中には、使徒たちを遠くからただ見続ける人たち、使徒たちを称賛するだけの人々、主イエスを信じる者とされた人たちなどがいました。さらに17節では、彼らに敵対する者たちが再び現れて、使徒たちを捕らえ牢に入れたのです。彼らは使徒たちに対するねたみに燃えていました(17)。最初の逮捕は、使徒たちが主イエスの復活を宣べ伝えていたことがその理由でしたが(4:2参照)、今回はねたみという人間的な感情がその背景にあります。福音が説かれるところでは、さまざまな反応があります。そして使徒たちの時代には、とりわけ力づくでその活動を止めさせようとする者たちが必ず現れ出て来たことを知ることが出来ます。
前回の捕らわれの時には、使徒たちは「今後イエスの名によって話したり教えたりしてはならない」という脅し付きで釈放されました。しかし今回は、主の天使がやって来て使徒たちを解放しました。そして次のように命じたのです。「この命の言葉を民衆に告げなさい」(20)。彼らは主の天使が命じるままに、主イエス・キリストが唯一の救い主であることを再び前回と同じ場所で語り始めたのです。天使による解放は、使徒たちをより安全な場所にかくまうためのものではなくて、み言葉を語らせるためのものでした。主イエスのなさることは、人知を超えています。
神殿当局者たちはそのような使徒たちを再び拘束して、最高法院で裁判にかけました。彼らは強い調子で尋問しています。「イエスの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか」(28節参照)。それに対して使徒たちはこのように答えましした。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(29)。これは第一回の逮捕の時にも彼らが口にした言葉でした(4:19参照)。この世の権力者たちは「語るな」と命じています。一方、主なる神は天使を通して、主イエス・キリストについて見聞きしてきたことをありのままに「語れ」と命じています。正反対の命令が使徒たちの耳に響いてきます。そうした時の彼らの行動の規準はいつも、「人間に従うよりも、神に従わなくてはならない」ということでした。それが「キリストの証人」としての唯一のあり方です。その姿勢が貫かれることによって、福音宣教の業は進展し、各地に教会が建てられることに結びつきました。
どのような時代であっても、キリストを信じ、キリストに従う者がとるべき姿勢は、使徒たちによって示されています。その姿勢を貫こうとするときに、それに必要な力も勇気も、そして語るべき言葉も、主なる神は必ず与えてくださいます。それが主の約束です。わたしたちの教会も、その主の約束を信じて、使徒たちに倣う教会としての歩みをこの地で強めて行かなければなりません。今日においても、教会には様々な圧力が見える形で、あるいは見えない形で加えられます。そのような時、わたしたちはエルサレム神殿での使徒たちの毅然とした姿を思い起こし、それに倣いたいものです。そうするとき、わたしたちもこの時代における「キリストの証人」としての働きを、力強くなすことが出来ます。