「ペトロの逮捕と教会の祈り」

使徒言行録12章1-19節

教師・久野 牧

使徒言行録12章では主として使徒たちに加えられた迫害について述べられています。そこでわたしたちも、これまでのエルサレムにおける信仰者への迫害について振り返ってみましょう。初めは4章に記されていますように、神殿で説教するペトロとヨハネが捕らえられて裁判を受けるという事件です。このとき二人は、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしてはならない」との命令と脅しを受けて、釈放されました(4:18、21参照)。5章ではエルサレムで、主を信じる者たちが増えてきたとき、神殿当局者たちは使徒たちを捕らえ、彼らを鞭で打ち、前と同じように、「イエスの名によって話してはならない」と命じました(5:40)。

その後ステファノの逮捕と殉教の死が、6-7章にかけて記されています。それに続いてエルサレムの教会に対する大迫害が起こったことが8章に記されています。多くの信仰者がエルサレムから逃げ出したのですが、しかしそれは敵対者たちの思惑とは異なって、キリスト教を潰すどころか、福音が各地に運ばれるきっかけとなり、その結果、アンティオキアに最初の異邦人教会が設立されるに至りました。

12章では舞台は再びエルサレムとなり、特にここでは使徒たちの中で、ヤコブとペトロの苦難が語られます。時代は、ヘロデ・アグリッパ一世の治世の頃です。彼は純粋なユダヤの血を引く人物ではなかったために劣等感持っていて乱暴でした。彼の迫害の手は、ついに十二使徒のひとりであるヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺すまでに至りました(2節)。このヤコブの死がユダヤ人に喜ばれるのを見たヘロデ王は、民衆への媚びへつらいのために、さらに十二使徒の代表格であるペトロを捕らえて、牢につなぎました。そうすることによって、ヘロデは人々からの人気を買い、さらに教会の群れの崩壊をさえ狙ったに違いありません。

一方、ペトロを捕らえられた教会の側の最大の関心事は、ペトロの救出でした。教会には権力者側のように、剣や武器はありません。教会はこの世的には全くの無力です。あるのはただ祈りの力だけです。教会にとって、また信仰者にとって、祈りこそがこの世の悪しき者と戦う時の武器です。そして神は祈りに応えてくださるお方です。祈りがわたしたちに与えられていることの恵みを深く思わされます。祈らないで何かをやろうとする教会、祈りを必要としないと考える信仰者、それは決して強い教会、強い信仰者ではありません。それは神に何も期待しない姿であり、霊的・信仰的に大きな弱さと欠けがあるというほかありません。

教会でペトロのために熱心な祈りがささげられているとき、牢では主の天使がやって来て、ペトロを牢の外に救出するという出来事が起こりました。初めは何が起こっているか分からなかったペトロですが、いくらか時間が経った後で、自分の身に起こったことが神によるものであることに気付かされました(11節)。ペトロは、「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」に行きました(12節)。

ペトロも、祈っていた信仰者たちも、最初は、祈りが聞かれたとは信じることが出来ませんでした。それは神のなさることが人の思いをはるかに超えているため、目の前に起こっていることを正しく理解できないことがあることを示しています。。しかし神は祈りを聞いてくださるお方です。こうして一つの困難な出来事を巡る教会の祈りは、ひとまず答えを与えられました。そのようにして神によって一つの祈りの実りをもたらされた信仰者たちは、その出来事を感謝をもって受け入れるとともに、新しい祈りの課題に向かって進んで行くのです。わたしたちにとっても、祈りの課題に欠けることはありません。