「異邦人に働きかける神」

使徒言行録10章1-16節

教師・久野 牧

初代教会のキリスト教が、ユダヤの国という限定された領域を超えて世界的なものとして進展していくためには、克服されなければならない壁がいくつかありました。その代表的なものの一つは「律法」であり、他は「異邦人」の問題です。その二つが結びついた出来事が、10章1節以下に記されているコルネリウスの物語です。場所はカイサリアです。この町はユダヤの都市ですが、当時ユダヤを支配していたローマ帝国はここをユダヤを治める行政の中心地としていました。ローマからの総督は、このカイサリアに駐在していました。ローマの一つの部隊の百人隊長コルネリウスは異邦人でしたが信仰深い人でしたし、彼の信仰は神によって受け入れられていました。彼にある日「神の天使」が幻の内に現れて告げたことは、使いの者をヤッファへ送って、そこにいるペトロをカイサリアに呼び寄せなさいというものでした。彼はペトロを知りませんが、即座にペトロのもとへ使いを送りました。

一方、ヤッファにいるペトロも幻を見ました。昼のちょうど12時頃空腹を覚えていたときに「天が開き」幻が見えました。その幻では天から降りて来た大きな布のような入れ物の中にあらゆる動物が入っていました。そして天からの声が「ペトロよ、屠って食べなさい」と彼の耳に響きました。それに対して彼ははっきりと拒絶の意志を表しました。彼は旧約以来の食べ物のおきてに忠実であったのです。それに対してまた天からの声が響きました。「神が清めた物を清くないなどと言ってはならない」。このようなことが三度繰り返されて動物を入れた入れ物は、天に引き上げられました。これはいったい何を意味しているのでしょうか。

旧約、特にレビ記11章のおきてで、清いとされた動物は食べても良いが、清くない動物とされたものは食べることができない、と定められていました。ユダヤ人はこのおきてに忠実でしたし、ペトロもそうでした。ところがいまペトロが見た幻の中の入れ物には、清い動物だけでなく、清くないものも含まれていました。だからこそペトロは、清くないものは食べるわけにはいきませんと拒んだのです。彼は神を信じていないから神の命令に逆らったのではなく、逆に神を信じているからこそおきてを破ることはできないと言っているのです。しかしここでペトロのなすべきことがあるとすれば、「主よ、これはどういうことですか」と神に問うこと、そして神の新しい命令の中に秘められている神の深い意図を汲み取ろうとすることでした。神が「食べよ」と命じておられることの中に秘められている神のご意図は何であるかを問わなかったことが、このときの彼の足りなさ、弱さでした。

ここで神が示そうとしておられる真意は、清い動物と清くない動物の区別の廃止を通して、ユダヤ人と異邦人の区別を乗り越えさせることです。つまり神は新しい時代の到来を告げておられるのです。それはキリストの福音の前では、ユダヤ人も異邦人もなく、あらゆる民族や人種を超えて、すべての人が等しく救いへと招かれているということです。もっと積極的に言えば、異邦人への福音宣教が本格的に始められる時が来たことを意味します。ペトロはこれから起こる出来事の中で神の新しい啓示に目が開かれていくことになります。苦しむペトロですが、その苦しみを通して、キリスト教、そして彼の宣教活動は、新たな段階へと進んで行くことになります。神の前で乗り越えなければならないわたしたちの教会の枠、打ち破らなければならない教会の壁とは何でしょうか。それを正しく捉えて、わたしたちも次の段階への前進や飛躍を与えられたいと願います。