「復活の主とサウロとの出会い」

使徒言行録9章1-9節

教師・久野 牧

わたしたちの人生においては、人との<出会い>が大きな転機となることがあります。人との出会いに属するものとして、主イエス・キリストとの出会いがあります。キリストとの出会いが、ひとりの人間の生き方を大きく変化させたということは、数限りなくあります。新約聖書に記されているイエス・キリストと人間との出会いの物語でひときわ目立つのは、サウロ(後のパウロ)の場合です。彼は主イエスとの衝撃的な出会いを与えられ、それによってその生き方を180度変えられた人物です。そのことを記しているのが、使徒言行録9章1-19節で、今日はその前半の部分である1-9節に注目しましょう。

サウロは当初、エルサレムに生まれたキリスト者や教会にとっては、恐るべき迫害者でした。彼は大祭司の「キリストを信じる者たちを捕らえて、エルサレムに連行してよい」という許可証を手にして、キリスト者への迫害行動をエスカレートさせていました。彼はイスラエルの神を心から信じていた熱心な信仰者でしたが、十字架につけられたイエスを救い主として信じることはできず、そのためキリスト者を撲滅することが神の御心であると確信していました。サウロの迫害行為は、今、ダマスコにあるユダヤ人会堂に逃げ込んだキリスト者たちに向けられています。

しかしダマスコに着く直前に思いがけない出来事がサウロを襲いました。それが3節以下に記されている出来事です。突然天からの鋭い光がサウロを照らし、衝撃を受けた彼は地に打ち倒されました。それと同時に、天からの声がサウロの耳に響きました。「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」(4節)。それに対してサウロは、次のように答えています。「主よ、あなたはどなたですか」と。この「主よ」という呼びかけは主イエスに対するものではなく、一般に自分を超えた存在や上位の者に対する敬称として用いられるものです。サウロに天からの声がさらに次のように語りかけられています。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(5-6節)。

この現象の中で、自分に働きかけておられるお方がどなたであるかはまだサウロには分かっていません。そのことが彼に理解できるようになるためには、いましばらくの時が必要なのです。その「しばらくの時」が、見えない状態の中で、食べることも飲むこともしないで過ごした三日間でした。その時、彼の中にある古いものが死んで、新しいものが生まれてくるための神による再創造の業がなされていました。その苦しみの時を彼はどのように過ごしたでしょうか。「今、彼(サウロ)は祈っている」(11節)。彼は多くのことが出来なくなった中で、祈りに集中しているのです。何を奪われても、神に対して祈ることはできます。如何なる時にも神への祈りは、決して奪われることはないのです。それは神からの賜物なのですから。

最後に、サウロの耳に聞こえた「なぜ、わたしを迫害するのか」、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」という言葉に思いを寄せましょう。これは主イエスの声です。サウロが実際に迫害していたのは、キリスト者と教会でした。しかし、復活の主は、「あなたはわたしを迫害している」と言われます。主イエスは御自身と、御自身を信じる信仰者たちやその群れである教会とを一体化しておられるのです。このように主は、わたしたちの苦しみをご自身の苦しみとして、わたしたちの痛みをご自身の痛みとして捉えてくださるお方です。わたしたちは主イエスと生命的な結びつきの中におかれていることを確信し、感謝しましょう。