「聖霊の真の力」

使徒言行録8章14-25節

教師 久野 牧

サマリアにおいてフィリポは多くの人に洗礼を授けました。それを知らされたエルサレムの使徒たちは、サマリアの新しい信仰者の群れを整えるために、ペトロとヨハネの二人を遣わしました。その派遣の目的は、15-17節に記されています。サマリアの新しい信仰者たちはイエスの名によって洗礼を受けたのですが、聖霊の賜物はまだ誰の上にも与えられていなかったため、聖霊の賜物が彼らに与えられるようにと、二人の使徒が遣わされることになった、という次第です。

洗礼を受けることと、聖霊がその人に降ることとの関係について聖書はどのように語っているでしょうか。洗礼はイエスを主と告白する者に与えられる恵みのしるしです。その時聖霊がその人に降っていることは、次のパウロの言葉からも明らかです。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです」(コリント一、12:3節)。それではフィリポから洗礼を受けた人々に関して、「聖霊はまだだれの上にも降っていなかった」(16節)とはどういう意味なのでしょうか。彼らの洗礼は、主の名によってなされる洗礼の予備的なものだったのかも知れません。ペトロたちが彼らの上に手をおいて祈ったときに、彼らは聖霊を受けた出来事は、フィリポによるものとは異なっていました。人々は聖霊を受けて信仰の新たな段階へと導かれました。彼らに主イエスのために働くに必要な賜物が与えられました。フィリポの洗礼とペトロの洗礼の違いを正確に説明することは難しい面がありますが、初代教会の時代は、今日とは異なることが起こる特別な時であったように思わされます。今わたしたちに求められている祈りは、癒しを行ったり、異言を語ったりすることのできる特別な賜物を求めることではなく、主イエス・キリストこそすべてのものの主であり、唯一の救い主であられるということを、いかなる時にも告白し、人々に証しすることのできる大胆さ、勇気、そして言葉を求める祈りです。

ところでサマリアに来たフィリポから洗礼を受けた人の中に、魔術を行っていたシモンがいました(9節以下)。彼はペトロたちが人々の上に手をおいて祈ると、聖霊が降るのを見て、自分にもその力が与えられたいと願いました。それは自分の欲得や栄誉のためでした。彼は聖霊を自由に操りたいと考えたのです。しかし聖霊は、人が操るものではなくて人が従うべきお方です。人が聖霊に命じるのではなくて人は聖霊なる神が命じられるままに動き、それに従うのです。聖霊に対する致命的な過ちを持っていたシモンは、ペトロによって厳しく叱責され、過ちを指摘され、滅びさえも告げられることになりました(20節以下参照)。シモンはペトロが告げる裁きの言葉や、悔い改めを求める厳しい言葉に恐れをなして、自分の過ちに気が付きました。そしてすぐに赦しを求めています。

ところでわたしたちが洗礼を授けられたという事実は、すでに聖霊なる神の支配と守りの中に移された、ということです。それゆえに、祈り求める神の子たちに、聖霊なる神はふさわしい行動を起こさせてくださるに違いありません。聖霊なる神は、あるときにはわたしたちを熱心な信仰の行為へと向かわせ、またあるときには静かな祈りと瞑想へと導いてくださいます。そのようにして、わたしたちをキリストの真実なしもべとして造り上げてくださるのです。聖霊のその働きはわたしたちの生涯にわたって続きます。新しい宣教の地サマリアにおいて多くの受洗者が与えられたように、この佐賀の地でも、「イエスこそ主なり」と告白して洗礼を授けられる人たちが生まれることを祈り続けましょう。熱心に求める者とその群れに、聖霊なる神は人知を超えた働きをしてくださるに違いありません。